天涯不問─水陸交通古地図
1368年、哈密王の使者が大量の「貢馬」を携えて都を訪れました。「哈密」─この嘉峪関の外、東南は肅州まで1、2千里の彼方に位置する西域の歴史ある国が派遣した使者らは、西北から帝国東南の応天府まで、一体どこをどう歩いて遙かな道のりをやって来たのでしょうか。「南京至甘肅駅鋪図」には、応天府から西北へと伸びる一本の道が描かれており、最後は沙州(現在の敦煌)に到達します。これは明代の主要な駅路網の一つ─「陝甘路」の交通路線図です。また、明代に制作された「四川省四路関駅図」には、成都都司を中心として、南北に伸びる4本の駅道が描かれており、明代に発達した各地域の駅路網が示されています。
陸路のほか、自然の水路を利用した水路交通は効率性が高く、コストも抑えることができました。中国一の大河である長江は、古くから多くの人々が往き来する、運輸や交通の要衝でした。清代に制作された「長江地理図」には、長江の中流と下流が描かれています。両岸の治水や兵備のほか、川面に浮かぶ多数の船舶も描かれており、水路交通の要だったことが示されています。また、「長江図」には、制作者の船旅での経験が描かれています。長江の河口から武昌の間にある河道の里程や水位、砂洲、暗磯の航路など、関連の交通情報が詳しく記されています。