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文化出版

嘉慶年間、乾隆王朝を引き継ぎ、皇室の芸術収蔵品を整理・出版したことは、文化的意義から見て、前王朝が遺漏した収蔵品を整理し、更にこれらを完全且つ系統化した点にあります。一方、政治の観点から見ると、更に継統を伝承する法理性を公表しています。《欽定秘殿珠林石渠宝笈三編》の刊行や《天祿琳琅》後編の出版などは全てその一例です。乾隆帝王朝の文化出版は、基本的には継続的に充実させて成っています。しかし嘉慶帝王朝の文化出版もまた、前朝の欠落した部分を補充しただけではなく、新たに加えたものも少なくありません。例えば、《宛委別蔵・定熙朝雅頌集》・《全唐文》・《大清会典》等の書の編纂が挙げられ、滿・漢文学から国家法制の規則に至るまで、全て嘉慶帝王朝文化事業の貢献を明示しています。当コーナーでは、本院が収蔵する宮中文書に関する刊行物から代表的な文献を選りすぐり、嘉慶帝王朝の文化編纂の過程の継続と開拓の姿をご紹介いたします。

《欽定天祿琳瑯書目後編》

《欽定天祿琳瑯書目後編》

  1. 清 彭元瑞等奉敕編
  2. 清 嘉慶間內府写本
乾隆四十年(1775)に出版された《欽定天祿琳琅書目》十巻(通称「前編」)は、乾隆九年(1744)に収録された、清の高宗(乾龍帝)が整理した書であり、古籍版本鑑賞の《天祿琳瑯》蔵書として最も名声を馳せた。この昭仁殿に置かれた善本古籍は、嘉慶二年(1797)、乾清宮の東側の大火災により全てが消失。嘉慶帝は即刻、翰林院学士彭元瑞(1731-1803)に対し、《前編》の体制に倣い、《欽定天祿琳瑯書目後編》を再度編集することを命じた。全書二十巻は、嘉慶三年(1798)の夏に完成し、収集された書は計664部にのぼる。これは嘉慶帝が乾隆帝の手順を踏襲し、宋・金・元・明より延々と守り継がれてきた善本を重心として編纂されたものである。
《欽定秘殿珠林石渠宝笈三編》

《欽定秘殿珠林石渠宝笈三編》

  1. 清 英和等奉敕撰
  2. 清 嘉慶間內府朱絲欄写本
本書は、嘉慶帝が、父親の乾隆帝より受け継ぎ、乾隆八年(1743)、及び五十八年(1793)に編纂した《欽定祕殿珠林石渠宝笈》正、続の二編に続き、更に編纂された三編である。内府の收蔵書画に新たに加えられた作品は二千余点で、清朝宮廷の書画典蔵目錄の集大成の作品と見なされている。三編は、嘉慶二十一年(1816)閏六月に編纂の令が下り、一年四ヶ月の時を経て完成した。全書の体裁や內容は等しく乾隆帝王朝を延長継続しており、嘉慶帝がこの《三編》を編纂することにより、父親の宮廷典蔵文化に於ける偉大な成就を示すと同時に、自らも先人の経験成果を受け継ぎ、新たなものを創造する聖君の役割を期したのである。
《宛委別蔵總目提要》

《宛委別蔵總目提要》

  1. 清 阮元撰
  2. 清 嘉慶間內府朱絲欄写本
清、嘉慶帝王朝の皇室善本「宛委別蔵」は、浙江の学政-阮元(1764-1849)が乾隆帝王朝の《欽定四庫全書》の文化企画を受け継ぎ、また今後続けて編集をする《四庫全書》の準備のために、わざわざ江浙(江蘇・浙江)一帶を隈なく捜査し、書籍を献上した。全ての未収録《四庫全書》は、阮元が人を雇い複写、浄書させると同時に、自らが提要を編集した。嘉慶帝はこれらの献上書に、「宛委別蔵」の名を賜い、養心殿に保存した。その後、阮元は続けて三回書を献上した。一部の書の初めのページには、「嘉慶御覧之宝」の玉璽があり、父親が当年最後まで成し得なかった《四庫全書》編纂の文化大業を引き継ぐ、嘉慶帝の気持ちが現れている。
《欽定熙朝雅頌集》

《欽定熙朝雅頌集》

  1. 清 鐵保等奉敕撰
  2. 清 嘉慶九年武英殿刊本
この詩歌集は、清代第一部旗人(清に属する軍事・社会組織「八旗」の関係者)の詩歌総集で、山東の巡撫であった鉄保(1752-1824)が編纂の責任を負った。全134巻で、清の初めから嘉慶年間初期までの、満州の王族・満州八旗・モンゴル族・八旗所属の漢族五百余名が作った詩を、計六千首以上集めた大著である。どの詩人にも簡単な紹介があり、若干の作品には詩評もつけられており、清朝中期の「八旗文学」(満州族文学)全盛期を具体的に呈した重要な公式刊行物である。この書は、嘉慶九年(1804)に完成し、嘉慶帝も自ら詩集に序文を寄せ本書の名を賜え、刊行後、家臣たちに授けた。ここから、嘉慶帝が文をもって国を治めようとする姿勢を如実に伺うことができ、正に八旗に文化的な気風を奨励した象徴である。
しかし、旗人の文学作品を評価し、旗人が漢詩を作るのを激励することは、清の歴代皇帝が一貫して満州語と騎馬民族の伝統を維持することを強調してきたこととは相反する。思うに、清朝も中葉に至り、 旗人の漢化が日増しに深化し、満・漢文化が融合し、嘉慶帝も満州族の漢化はすでに不可逆的な現象になっていることを深く認識していたに違いない。書中の序文では、「輝しい武功で開かれた清は、平和な時代を迎え、文化・教育が盛えている。詩文の吟詠を、清王朝はあまり重視してこなかったが、思いのたけを表すのも、またこの栄えある世にふさわしい」と指摘している。これによって、旗人が漢語と騎馬の双方を提唱し続ける他、嘉慶帝は、文学作品は世の中が栄えている証拠であると考えていた。旗人に対し、文学創作の奨励を通して、その心を正し、堕落した生活態度を改めることは、八旗道德腐敗を矯正するための一種の文化的政策だったのである。
《欽定全唐文》

《欽定全唐文》

  1. 清 董誥等奉敕編
  2. 清 嘉慶年間武英殿刊本
《全唐文》は、曽祖父康煕帝が編纂した『全唐詩』の後を受け継ぎ、嘉慶帝が百名余りの翰林學士に命じ編纂させた唐代の総文集である。収録した文章の多さ、作者の多さ、共に先人が編集した唐人の文献図書をはるかにしのぐものである。当書の編纂は、嘉慶十三年(1808)に始まり、朝廷に特設された文穎館を中心に、7年の歳月をかけて完成した。全書1,000巻、收錄文章は8,400編を超える。嘉慶帝は特別に序文を書き、その中で、国家は文化建設と社会教化を基礎とすべきであることを強調し、これを機に唐の文化を発揚し、文を以て政治を補佐し、清の文書の気風を尊び、純粋素朴な大清帝国の気風を改めて構築すると述べている。
為奉頒《全唐文》敬謹校対刊刻奏聞事

為奉頒《全唐文》敬謹校対刊刻奏聞事

  1. 両淮塩政阿克当阿 奏摺
  2. 嘉慶十九年六月二十九日
嘉慶十九年(1814)《全唐文》に全巻の編纂作業が完了した後、嘉慶帝は臣下に命じ、当書を両淮塩政阿克当阿(1755-1822)に送り、印刷発行することを命じた。阿克当阿、字は厚菴、滿洲の正白旗人で、地方文化を推進する事業に尽力すると同時に、《重修揚州府志》の編纂も手掛けた。阿克当阿は朝廷の命令を受け、ただちに江南の著名な文人や優秀な印刷工を招聘し、校正や版刻などの作業を進め、二年あまりの時間で、この膨大な書籍を完成させた。奏摺には、阿克当阿が朝廷からの奉書を受け、出版作業の処理経過が記されている。