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嘉慶帝とその人

嘉慶帝は本名を永琰(えいえん)と言い、即位後は「顒琰(ぎょうえん)」と改めました。十五阿哥(第十五皇子)から嘉親王、親王から嗣皇帝(王位継承者)となり、父親である乾隆帝の崩御後にようやく親政を始めることができました。本コーナーは顒琰の皇子時代、即位後、逝去の各段階に関連した文献と文物をご紹介し、その修身と宮廷生活について理解を深めます。

嘉慶帝肖像画

嘉慶帝肖像画

清朝歴代皇帝は文学の創作に励み、数多くの詩文を残しているが、永琰もこの気風を継承し、詠んだ詩文は相当数に上る。即位後は皇子時代に著した「味餘書室全集」のほか、即位後十年ごとに出版した「御製文初集」、「二集」、及び八年ごとに出版した「御製詩初集」、「二集」、「三集」に加え、道光年間初に嘉慶帝が生前に残した詩文を整理出版した「餘集」など、その生涯で残した作品は一万余篇にも上る。嘉慶帝の作品は学問の研究から政務、皇室から社会への関心に至るまで如実に記録している。一部の詩文集には、冒頭の頁に嘉慶帝の四十一歳から五十六歳までの肖像画が描かれており、その中年時代の容貌の変化を見ることができる。
「大清仁宗睿皇帝本紀」

「大清仁宗睿皇帝本紀」

本院所蔵の「大清仁宗睿皇帝本紀」は、清朝道光年間(1821-1850)に編纂され、主に嘉慶帝の生涯について記されている。出生の順序、時刻、場所はもちろん、日常の行いと即位後の重要な事蹟が記録されているほか、その面立ちについては「高い鼻は豊か大きく、立ち振る舞いは厳であり、内に明哲を秘め思慮深い」、勉学に関しては「三歳で五経に通じ、筆を執れば直ちに詩文を作った」とあり、日常の行いは「大変な親孝行」と記されるなど誇張された賛辞が並ぶが、天子としての人徳と気質を強調しているのがうかがえる。嘉慶帝の崩御後、朝廷は「睿」をその諡とし、勉学や修身、治世においてにじみ出る叡知を表した。
清 寿山石「皇十五子、竹素園」連珠印

清 寿山石「皇十五子、竹素園」連珠印

  1. 印面:2.5 × 1.2 cm
  2. 高さ:5.1 cm
寿山石の連珠印。上が朱文「皇十五子」、下が白文「竹素園」。印鈕に浮き彫りした斜面に満開の月季花があしらわれている。「剔犀雲文套盒」という百什件(皇帝の愛玩品を収める箱)に入っていたもので、中には嘉慶帝の真跡も収蔵されていたことから、箱には即位前の皇子時代に使っていた印章を収めたと考えられる。ちなみに「竹素園」は嘉慶帝が皇子時代に使っていた堂号である。
乾隆御製「倦勤斉作歌」

乾隆御製「倦勤斉作歌」

  1. 永琰 書
  2. 竹扇子
  3. 紙本泥金
  4. 清 乾隆年間
本博物院はこの寸法と形の墨箋竹扇子を十本所蔵している。この扇子の片面には永琰(顒琰)が金泥で書した乾隆帝の御製詩、もう片面には弘旿(こうご、1743-1811)が同じく金泥で描いた山水があり、元は同じ木箱に収められていた。扇面に書かれた御製詩は倦勤斉、楽寿堂など乾隆帝が退位後の居住場所とした寧寿宮の各居室を詠んだもので、乾隆四十一~五十四年(1776-1789)に作られた作品である。この扇子は永琰が嘉親王に立てられた乾隆五十四年に作られたものと推測され、皇位継承者である永琰が先帝の御製詩を書したことは、継承の意味合いが強い。永琰の書とされているものの、流れるような筆法と優美な結構は現存する嘉慶帝の書蹟と異なり、代筆と思われる。
綺春園記

綺春園記

  1. 「御製文二集」,巻四
  2. 清仁宗 著
  3. 清 嘉慶二十年 内府烏絲欄写本
綺春園は元は「交輝園」と言い、康熙帝が第十三子の允祥(1686-1730)に賜った庭園である。乾隆年間に大学士の傅恒(1720-1770)に授けられると「春和園」と改められ、乾隆三十四年(1779)に円明園と合併し「綺春園」となった。嘉慶年間には綺春園西側の各小庭園も組み入れられ、一連の修繕と拡張を経て現在の規模に至る。円明園三園のうち、綺春園は面積が最も小さい上、建設された時期も後の方だったため、総体的な建設計画が成されなかった。しかし、豊かな緑や迂曲した湖岸、起伏する築山など、園内は自由で優雅な趣に満ちている。建築群は余計な装飾を施さず質樸さを追求し、清々しさと落ち着きを感じさせる。これについては嘉慶帝も「つくりが自然で特別な妙趣がある」と称讃している。嘉慶帝が御苑について詠んだ詩文の中でも綺春園に関する作品が最も多く、綺春園を大変気に入っていたことがうかがえる。「綺春園記」がその一つであり、歴史的な由来や園内の配置、景観スポットの位置について説明しているほか、最後に園内の修繕と自身の治国理念を重ね、遊園はただ園林を楽しむものではなく、自然景観の中から君子の道を悟るためのものと強調している。