「百年の追憶-写真で振り返る故宮紫禁城と文物の遷移」特別展
「百年の追憶-写真で振り返る故宮紫禁城と文物の遷移」特別展
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最後の皇帝と王妃たち

中国の歴代帝后の肖像は、大半が宮廷画家の手により描かれたものでした。そのため、図像と本人が似通っているかどうかは、往々にして定かではありませんでした。絵師もまた、実物となる本人に会ったことがなく、想像し創作することも多々あったと言われています。撮影技術が宮中に導入された後は、皇室に大いに歓迎され、ロイヤルファミリーの生活及び人物の肖像を撮影し、記録する写真は、このため数多く残されることとなります。ラストエンペラー溥儀(1906-1967)を例に見ると、三才に即位し、六才で退位し、十七才で結婚し、形ばかりの朝廷時代に於ける宮廷生活から天津へ借り住まいをしたという全ての経緯は、皆レンズを通して完全に記録して残され、中国歴史上唯一写真映像としてその言動が残された皇帝と言えます。

溥儀の影響を受け、皇后の婉容(1906-1946)、及び側室の文繍(1909-1953)もまた撮影に興味を持ち始め、撮影の技術技巧を学び、自由にカットを捉えて撮影しました。本コーナーで精選された写真の中に、所謂ラストエンペラーが権威を取り払った神秘感が感じ取られます。ご来館の皆様には、溥儀の名ばかりのささやかな朝廷時代の生活原風景、及び紫禁城を追われた後の経緯と生活情景をご覧頂きます。

ラストエンペラー、溥儀

  1. 1920年代
  2. 北京故宮博物院提供

所謂ラストエンペラー溥儀(1906-1967、在位1909-1911)は、清が中国を統一した第十代目の皇帝にあたり、年号は宣統、三才で即位し、皇帝の在位期間は、僅か三年。年六才にして辛亥革命が起こり、皇帝を退位したが、清王室及び国民政府間による《優待條件》の協議の下、溥儀は、退位後も尚、皇帝の尊号を持ち続け、暫時紫禁城内にて過ごすことが許され、民国十三年(1924)に紫禁城を追われるまで宮廷生活を送った。

清代歴代の皇帝肖像の中で、溥儀が残した肖像の数は最も多く、更に内容も最も豊富であり、当時の流行であった写真撮影により、大量に保存された。これらの映像には、溥儀が幼少期、朝廷に出仕する時に着る、朝服姿の写真、辮髪を切り落としたばかりの姿、十六才より近視が始まり、眼鏡をかけ始めた頃の肖像写真、皇軍レジナルド・ジョンストンの影響を受け、外国紳士を模した西洋風の姿や軍装の姿が含まれている。写真から、少年皇帝である溥儀の平静且つ端正な姿、その温厚で気品に満ちた風采が見てとれる。しかし溥儀の個性は活発で、拘束されるのを好まなかったため、日常生活に於いては、様々なレジャー活動を行い、その都度レンズを通して撮影される素材となり、ラストエンペラーの幼少期からその成長過程の生活のあれこれを具体的に証拠立てている。

溥儀像
溥儀像

最後の皇后、婉容

  1. 1922年
  2. 北京故宮博物院提供

婉容(1906-1946)、ゴベイル氏、字は慕鴻、号は植蓮,ダフール(Daur)族、満洲正白旗の人。父親栄源(1884-1951)は、内務府大臣。母親は栄源の後妻、毓朗の次女、恒香。幼年期より優れた教育を受け、琴•碁•書•画などに通じ、更に天津アメリカ教会学校に通い、西方文化に対し深い興味と好奇心を抱くようになる。西洋式の飲食とジャズ音楽を好んだ中国、西洋文化の影響を受けた女性である。民国十年(1921)正式に皇后に選ばれ、翌年皇帝の婚儀を完成させる。婚儀後、慈禧生前の住居、儲秀宮に移り住む。

最後の皇帝が同年誕生し、溥儀が写真を好んだその影響もあり、婉容は多くの写真を残す。写真に映る婉容のその容姿は美しくしとやかで、優しく麗しく、皇后の独特な気質を放っている。紫禁城時代の婉容の生活は多彩であり、彼女と溥儀との写真からも、幸せな歳月の楽しい雰囲気が表れている。民国十三年(1924年)天津滞在期間、溥儀が清王室復興の大業に専念していたため、皇帝との関係が日増しに薄らぎ、生活に於ける空虚感は次第に彼女をアヘンに溺れさせ、自らの解脱も叶わなくなった。



婉容婚儀に於ける朝服像
婉容婚儀に於ける朝服像
  1. 二十世紀初期
  2. 北京故宮博物院提供
溥儀、婉容のツーショット
溥儀、婉容のツーショット

末代皇妃文綉

  1. 1922
  2. 北京故宮博物院提供

文綉(1909-1953)、字は蕙心,自ら愛蓮と号す。モンゴル族、エルデト氏、満洲鑲黄色旗の人。父親は端恭(1852-1908)、母親は蒋氏、妹に文珊がいる。文綉は幼年期より学校に通い読み書きを習い、傅玉芳と名乗り、学業成績優秀且つ才気にあふれていた。

民国十一年(1922)溥儀の婚儀にて、婉容が正室に選ばれた後、文綉は淑妃として宮中に入り、長春宮に移り住む。その間、文綉と溥儀の感情が融和せず、民国十三年(1924)、溥儀が強制的に宮廷を退去させられ、住まいを天津に移した期間、淑妃と溥儀の感情は更に悪化した。民国二十年(1931)八月二十五日、年二十二にして文綉は、遂に妹の文珊の助けと励ましを得て、溥儀に対し積極的に離婚を要求した。これは中国後宮制度成立以来の大事件であり、この出来事は全国を沸き立てさせた。ここから、文綉が伝統体制から抜け出し、個人の権益を勝ち取った勇気と度胸が反映されている。

文綉朝服立像
文綉朝服立像