「百年の追憶-写真で振り返る故宮紫禁城と文物の遷移」特別展
「百年の追憶-写真で振り返る故宮紫禁城と文物の遷移」特別展
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皇室と貴族

十九世紀半ば、西洋の撮影技術が中国に伝わりました。記念撮影は瞬く間に民間に広がり、清朝晩期の皇室の間でも一大ブームとなりました。朝廷と民間は、写真は魂を抜き取る邪悪な技術だとしていた見方を変え、むしろ進んで写真館に足を運んだり、或いは撮影技師を招き入れたりして、レンズを利用して一瞬の永劫を捕らえるようになりました。今日見られる皇室の人物の各種肖像、着飾った姿や生活写真は、皇族の子孫の攝影に対する濃厚な趣を反映しています。

本コーナの精選された写真には、慈禧皇太后(1835-1908)、皇后や貴妃、及び親王ベイレ(貝勒)、福晋ゲゲ(格格)の個人写真、及び家族写真が包括されています。光宣年間に入り、写実絵画が事実の記録を担っていた機能は、次第に撮影がこれに取って代わり、そのため、皇室の人々の肖像は、絵画ではなく写真によるものが多くなったことが推察できます。また何枚かの写真は、個人の威厳のある容貌を留める目的で撮られ、或いは国外元首使節への外交上の贈答品とされました。

慈禧皇太后(西太后)

  1. 光緒三十年(1904)
  2. 北京故宮博物院提供

慈禧皇太后(1835-1908)、エホナラ氏、名は杏貞、もと満洲鑲(ジョウ)藍旗の人、咸豊十一年(1861)同治皇帝が即位した後、慈禧晋が皇太后となり、鑲黄旗を立てるに至った。父親恵徴(1805-1853)は、安徽寧池太広の道員(道員:行政の監察に携わる長)、母は富察氏。三人の弟と妹が一人おり、その妹婉貞(1841-1896)は、咸豊年間、命により醇親王奕譞(1840-1891)の正妻となる。

咸豊二年(1852年)、十八才の慈禧は清朝宮殿に於ける后妃選定制度により選ばれて後宮へ入り、七十四才で逝去。同治皇帝(1856-1875)を出産。四十八年に亘り政権を掌握した清朝晩年の政治に於ける主要な人物である。

光緒二十七年(1901)義和団事件後の講和条約締結後、慈禧皇太后は対外関係を改善するため、二十九年(1903)駐仏大使、裕庚(?-1905)の任期満了に伴い一家が帰国した際、その長男勛齢(生没年不詳)を宮中に招き、何枚もの写真を撮影させた。勛齢もこれを期に慈禧の御用撮影技師となる。目下北京故宮博物には七百枚余りの慈禧の写真が保存され、その大半はこの勛齢により撮影されたものである。展示される写真は主に光緒二十九年から三十年(1903-1904)の間に撮影されたものであり、慈禧の個人写真、集合写真、または観音姿に着飾った写真で、これらの写真は慈禧個人のコレクションとなったほか、一部は外国の元首使節に贈られ、また一部は民間の写真館を通して、商品として販売された。

慈禧皇太后坐像
慈禧皇太后坐像

隆裕皇太后

  1. 清末
  2. 北京故宮博物院提供

隆裕太后(1868-1913)、エホナラ氏、名は静芬、慈禧太后の三番目の弟、桂祥の娘の静芳。光緒十四年(1888)、慈禧皇太后のアレンジにより皇后に選ばれ、翌年光緒皇帝(1871-1908)との婚儀が行われた。系譜の上では、ナラ氏は慈禧皇太后の姪で、光緒帝より四才年が上のいとこにあたる。いずれにせよ、政略結婚であったため、皇帝と妃の関係は不仲で、始終冷えきった状態にあった。

光緒三十四年(1908年)、光緒皇が崩御し、宣統皇帝溥儀が即位し、皇太后に隆裕の徽號が贈られた。宣統年間、隆裕は皇太后の位にあったが、個性は優柔不断で、自らの定見を持たず、多くは寵愛していた宦官張蘭徳(1876-1957)の言うままになっていた。民国三年(1911)、辛亥革命が勃発し。挽回が無理な形勢にあると判断した隆裕は、袁世凱と張蘭徳の威圧の下、国民政府の提出した「清室優待條件」をやむなく受け入れ、退位の詔書を下した。その後、鬱病を患い、四十六才で逝去。写真は清末宣統年間、隆裕皇太后が禁宮御花園に於いて撮影されたものである。

隆裕太后と太監 於宮殿の御花園
隆裕太后と太監 於宮殿の御花園

端康皇貴太妃

  1. 二十世紀初期
  2. 北京故宮博物院提供

端康皇貴太妃(1874-1924)、光緒皇帝の妃、瑾妃、姓はタタラ(他他拉)氏、満洲鑲紅旗の人。礼部侍郎の長敘(生没年不詳)の長女、妹は珍妃(1876-1900)。光緒十四年(1889)、光緒帝の妃に選ばれ、翌年東六宮の永和宮に移り住む。光緒二十年(1894)正月に瑾妃の称を加増された。宣統元年(1909)瑾貴妃の尊称を授かる。民国二年(1913)、隆裕皇太后が逝去した後、瑾妃は更に端康皇貴太妃の称号を授かった。

溥儀の形ばかりの朝廷時代において、端康は曽て慈禧皇太后を真似て、紫禁城の大権を掌握しようと試み、醇賢親王の正室であるグワルギャ氏(?-1921)をも仲間に引き入れていた。しかし、溥儀が成長するに伴い、端康は全てにおいて溥儀を支配することができなくなり、最後には放棄せざるをえなくなる。その生活は次第に閉鎖的なものとなるが、長い間隠居の自在な生活を送った。

端康皇貴太妃坐照
端康皇貴太妃坐照

醇親王及びその正室

  1. 清末
  2. 北京故宮博物院提供

奕譞(1840-1891)、姓はアイシンカクラ(愛新覚羅)氏、号は朴庵、道光の第七子、咸豊皇帝(1851-1861)の即位に伴い醇郡王に封ぜられる。同治十一年(1872)親王に上った。清朝晩年の光緒、宣統両皇帝の実の父祖となり、清末の政局をはじめ、軍事行政改革に於いて、一挙手一投足が全ての局面に影響するほどの役割をになった。

奕譞は一人の正室、三人の側室を有した。正室のエホナラ氏(1841-1896)氏、名は婉貞、慈禧皇太后の実の妹で、咸豊十年(1860)皇帝の命を受けて妃となった。婚儀の後、夫婦は仲むつまじく過ごし、前後して四人の子を授かり、次男は即ち光緒帝の載湉(1871-1908)であるが、その他の子は、幼くして亡くなっている。

奕譞と正妻エホナラ氏
奕譞と正妻エホナラ氏

載灃及びその一家

  1. 民国初期
  2. 北京故宮博物院蔵提供

載灃(1883-1951)、字は亦云、太平湖醇親王邸宅で産まれ、奕譞と福晋であった劉佳氏を父母とする。書物の収集を好み、自らの号を「書癖」とした。光緒十五年(1889)、鎮国公に奉じられ、奕譞崩御の後、醇親王の爵位を継ぎ、世襲は不変であった。二十七年(1901)義和団事変の後、特使の身分を以てドイツに赴き、謝罪を表明した。三十四年(1909)、光緒帝崩御の後、長子溥儀は三才という幼さで、帝位についた。載灃は監国摂政王に任ぜられ、朝廷に入り政務を執った。

光緒二十八年(1902)、慈禧皇太后の命により、大学栄禄(1836-1903)の娘、グワルギャ氏(?-1921)と結ばれ、溥儀を授かる。民国二年(1913)鄧佳氏の正妻を娶り、計四人の男子、七人の女子を授かり、三子溥倛(1915-1918)が夭折し、長女の韞媖(1908-1925)が十八の若さで逝去したほかは、皆父兄同様に民国初期以来の政治動乱を経験した。

載灃は一生を通してその個性は気が弱く、優柔不断ので性格であったが、一方で、その人柄は正直で温厚であった。摂政として政務を行った期間は、勤勉で誠実に分を守った。清末の政治改革を引き続き行い、立憲政治を推行し、事業を発展させ、軍事行政を正した。いわゆる清末のすでに情勢が退廃し、日増しに悪化するなか、権臣が横行し、西洋列強にへつらうのが恒常化していた。そのなかで、載灃は顕要な地位にありながも、摂政の力が不十分であったため、政治に対し疎遠、無力になり、家庭に於いて、子供たちと過ごすことで、唯一の安らぎを得ていたと言われている。



溥儀と父、兄弟姉妹の家族写真
溥儀と父、兄弟姉妹の家族写真

解説:前列右より七女の韞歓、五女の韞馨、四男し溥任、四女の韞嫻、六女の韞娯、中央が溥儀。後列右より三女の韞穎、二男の溥傑、二女の韞和

サングラス姿の溥儀及び兄弟姉妹八人の家族写真
サングラス姿の溥儀及び兄弟姉妹八人の家族写真