王羲之の「十七帖」は宋代の黄伯思に「書中龍也。」と評された。東晋の王羲之(303-361)がしたためた書簡29通を集刻した法帖である。現存する法帖では最高のものだと言え、巻首にある「十七」2文字から「十七帖」と命名された。この冊には26通が収められている。末尾に「勒」とあるのは「館本」に分類され、これはその内の一つで「欠十七行本」と言われる。書体は今草を中心に行書と章草体が混在している。結字は美しく、動感のある用筆も生き生きとしている。歴代の書人でこの法帖を臨習しなかった者は一人もおらず、書学の典範だと言える。譚伯羽氏、譚季甫氏寄贈。
趙孟頫(1254-1322)、字は子昴、号は松雪、浙江湖州(現在の浙江省湖州市)の人。宋太祖趙匡胤の11代目の子孫にあたる。書法では復古を提唱した。各書体に精通し、後世に大きな影響を及ぼした。
この作品は明代の夏原吉、清代の安歧、民国時代は李石曽などに収蔵されていた。かつては非常に高く評価されていたが、北京故宮博物院所蔵の延祐6年本「絶交書」と比べて見ると、行気(文字間や行間の繋がりや流れ)に不自然な感があり、筆法と結体にも模倣が多い。後人による臨書の可能性が疑われる。
倪元璐(1593-1644)、字は玉汝、号は鴻宝、浙江上虞(現在の浙江省紹興市上虞区)の人。天啓2年に進士に及第。官は戸部尚書に至り、翰林院学士でもあった。崇禎17年(1644)、李自成の乱により北京は陥落し、明朝は滅亡した。倪元璐は明の滅亡に殉じて縊死し、福王より文正という諡号を賜った。
倪元璐の書法は脱俗的で霊妙な雰囲気があり、とりわけ行草書に特色がある。書幅左下に意図して余白を残した作が多い。墨韻は潤渇が強烈な対比をなし、緩急様々な運筆の変化が見て取れる。二つの異なる力が互いに引っ張り合っているようにも見え、熟練の筆遣いに個性が際立っている。台益堅氏寄贈。
楊峴(1819-1896)、字は見山、号は藐翁、または遅鴻残叟など。帰安(現在の浙江省)の人。咸豊5年に挙人となり、官は常州知府に至った。詩文と書法をよくし、その八分書は古典を継承しつつ新たな境地を切り開いたと言える。
前漢の焦延寿作『焦氏易林』は四文字一句で易学の精華が記されている。この軸は漢隷節録で書かれたもので、非常によく合っている。書風は礼器碑のものだが、提按や墨の乾湿の変化、結字の開閉、広がりなど、いずれも独創的で新たな境地に達している。観る者を圧倒するような気勢があり、独自の書風が確立されている。
曹容(1895-1993)、字は秋圃、号は老嫌、台北市大稲埕の人。各書体に精通し、「迴腕法」という執筆法を用いた。書法教育推進に積極的に参与し、「書道禅」という理念を提唱した。台湾書壇を代表する書家の一人である。
この作品は文天祥の詩「雲端」を書いたものである。漢武帝が謀反を企てた劉安を捕らえようと兵を遣わしたことが記されている。劉安は「一人が道を得れば、鶏や犬も天に昇る」という諺の由来でもある。全体の筆意は行楷の間にあり、重厚な点画は古風な味わいもあり、墨色と余白のコントラストが鮮やかである。曹恕氏寄贈。