展示作品解説
宋 李唐 乳牛図
李唐(1049頃-1130)、字は晞古、河南河陽(現在の河南省孟州市)の人。徽宗朝の画院に召され、建炎年間に成忠郎に任ぜられた。その後、画院待詔となった。
牧童が牛の背に乗っている。その後ろをついて行く子牛は、首を伸ばして小さく鳴いている。牛の母子の情が写実的に表現されている。牛の身体は薄い墨で輪郭が取られ、筆先で渦のような毛流が描かれており、下腹は色をぼかして、牛の姿が見事に描写されている。背景の平坦な地面に生える青々とした草、岸辺の岩石が味わいを添え、静けさを感じさせる江南の景色が描かれている。画上に款印はなく、梁清標(1620-1691)による題籤には李唐作と記されている。
宋 馬遠 松泉双鳥
松の幹に腰かけている仏塵を手にした士人。その傍らには童僕が控えている。舞い降りてきた2羽のカササギがせせらぎで水を飲んでおり、生気溢れる画面となっている。対角線構図が取られ、背景に大きく余白が残してあり、広々とした空間が表現されている。人物の衣服は大まかに輪郭が描いてあり、山石には斧劈皴が用いられている。筆勢鋭く斜めに描いた松の枝が特徴的で、これを「拖枝馬遠」と言う。
馬遠、字は遙父、号は欽山、銭塘(現在の杭州市)の人。南宋光宗、寧宗朝(1190-1224)時代の画院待詔。山水画や花鳥画、人物画、いずれにも秀でていた。『名画集真冊』第七開より。
宋人 番騎出猟図
胡人のような容貌の貴族と馬が描かれている。従者が前を行き、主人がその後に続いている。細い髪と鬚がリアルに表現され、人物も生き生きと描写されており、鉄線描を用いた人物と鞍、馬の線は滑らからで整っている。この絵はボストン美術館(米国)が所蔵する同名の長巻と構図が似ている。その作品には複数の人物が騎馬で繰り出す場面が描かれているが、この絵には二人しかいない。遊牧民の貴族の暮らしを描いた本作は、風格から判断すると、北宋画院の人物にやや近く、南宋の風格とは異なっている。『名画集真冊』第四開より。
宋人 雪桟牛車図
冬の寒々とした空と降り積もった雪、寒風に吹かれる樹木。遠方には起伏のある山があり、牛車の列が雪道を往来している。荘院にいる牛とラバは地面に伏せたり、休んだりしている。軒先にいる二人の人物は握手をしながら言葉を交わしている。川辺の水車小屋では穀物をひいている。叙述的な手法で厳冬の風景と、郊外を行く旅人の姿が描写されている。斜面と岩石には斧劈法が用いられており、用筆は重々しく墨色も濃厚である。空と地面は薄い墨で、遠山の斜面と岩石は余白で表現してあり、雪の清らかな白さが際立っている。筆墨の特徴から、宋代末期か元代の作品と考えられる。
宋 銭選 煙江待渡図
銭選(1235頃-1307)、呉興(現在の浙江省湖州市)の人。字は舜挙、号は玉潭、巽峰など。元朝には出仕せず、生涯を通して書画の創作に取り組んだ。
山水画は趙令穣と趙伯駒に師法し、花鳥画は趙昌、人物画は李公麟に師事したが、前人の法に捉われることはなかった。この作品には、秋の山水が描かれている。山々のなだらかな斜面には硬さのある勾皴を多く用い、青緑山水の精緻かつ古雅な趣が表現されており、文人画らしい静けさに満ちている。細筆皴点で描かれた生い茂る木々にも清らかな美しさがある。平遠な構図で広大な空間が表現されており、脱俗の境地にある。画家は画上の題詩で、俗世を離れ隠遁したいと願う自身の思いを伝えている。
元 高克恭 画春山晴雨
高克恭(1248-1310)、字は彦敬、号は房山、先祖は西域出身、本籍は大同(現在の山西省)、後に移居して房山(現在の北京市)で老後を過ごした。この絵は大徳3年(1299)に李衎(1245-1320)のために描いた作品。高克恭が江南で暮らした最後の年に描いたもので、その後、都へ戻り工部侍郎に任ぜられた。
山水画は米芾と米友仁父子に学び、並べた横点と多層の暈染を用いる。この絵の構図は3段に分かれている。近景には雑多な樹木が生い茂り、中景は余白で雲ともやが表現されている。遠山は短い披麻皴を用いて、薄墨と青緑でぼかしてあり、奥行きの深さが感じられる。雨上がりの雲山の雄壮な眺めが表現されている。
元 倪瓚 脩竹図
倪瓚(1301-1374)、字は元鎮、号は雲林、迂翁など。裕福な家の生まれで、清閟閣を建てて書画を収蔵した。山水画に優れ、元代四大家の一人に数えられる。
一枝の竹が描かれている。上下に翻りつつ、様々な姿を見せる葉が美しく、その配置も見事である。用筆は細いが力強く、濃淡の変化が見られ、筆墨には温かな潤いがある。簡潔だが清新な趣が漂い、竹の形を描いているだけでなく、竹の性質まで表現されている。晩年は仏教、道教界の人物らと交遊した。この絵は洪武7年(1374)、無学上人のために描いた作品である。その年、倪瓚は74歳で世を去った。
明 戴進 画山水
戴進(1388-1462)、字は文進、号は静庵、または玉泉山人、浙江銭塘(現在の浙江省杭州市)の人。
近景の中央に配された水榭(水辺の東屋)に数人がいて、川で釣りをする人物の姿も見える。遠景には高大な主山が障壁の如く聳えている。郭熙から変化した表現が見られ、斧劈皴を用い、水を使った皴染もある。運筆は素早く、濃い墨点で樹木を描いている。古朴だが力強く、気勢雄大な「浙派」山水画の風格がある。現存する戴進の名作で、画上に款署「銭唐戴文進写」のほか、「静庵」という印が一つある。
明 呉彬 月令図
呉彬(1573-1620頃に活動)、字は文仲、号は枝隠頭陀、福建莆田(現在の福建省莆田市)の人。
一年を通した風景が月ごとに描かれ、特殊な横幅の冊頁にまとめられている。十二幅で一揃いとなる構図は、本院所蔵の呉彬「歳華紀勝図冊」と基本的には同様だが、2月と3月の順序だけ異なっている。様々な人物の動作や多種多様な景物が生き生きと表現されている。画風は精緻かつ鮮麗で、着色も味わい深い。古人の技法に捉われず、「文派」の風格において特異な趣を創出した。
清 龔賢 谿山疏樹
龔賢(1599-1689)、字は半千、または野遺、号は半畝、江蘇崑山(江蘇省蘇州市崑山)の人。
川岸に生える樹木が描かれている。一見すると、何の変哲もない風景画に見えるが、細部までよく見ると、変化に富んでいることがわかる。墨色の対比を巧みに用いて、深浅の重なりが強調されている。対幅には饒宇朴が「櫟翁」(周亮工1612-1672)のために書いた詩文がある。明朝と清朝に仕えた周亮工は鑑賞家としても名高く、しばしば友人らを招いては絵画を鑑賞して詩を書くなどし、収集した絵画も名品揃いだった。清『周亮工集名家山水冊』第七開より。
清 石谿 雲山煙雨
髡残(1612-1673)、本姓は劉、字は石谿、号は残道人、湖南武陵(現在の湖南省常徳市武陵区)の人。幼少期に母を亡くし、出家して僧侶となり、その後、各地を遊歴した。
濃墨で描かれた山体は墨色の変化に富んでおり、米芾の雲山に新たな活力を与えている。また、禿筆を用いた箇所には独自の風格も見られる。この山は南京の牛首山である。辺綾に王士禎(1634-1711)の跋、対幅に朱一是と周銘による題があり、いずれも画題に呼応している。清『周亮工集名家山水冊』第十開より。
清 王翬 倣李咸熙群峰霽雪
王翬(1632-1717)、字は石谷、号は耕煙散人、烏目山人、剣門樵客など。常熟(現在の江蘇省常熟市)の人。
雪に覆われた深山が描かれている。松の古木と楼閣、主峰が突出している。空は薄墨、山頂は白粉、山石は赭黄、遠方の樹木には濃墨と石緑が使われている。極めて精巧な筆致で、冬の深山の雪景が描かれている。周亮工が他界した年、王翬は40歳になったばかりだったため、40歳前の作品だと考えられる。清『周亮工集名家山水冊』第二開より。
清 王原祁 春雲出岫
王原祁(1642-1715)、字は茂京、号は麓台、江蘇太倉(現在の江蘇省蘇州市太倉)の人。王時敏(1592-1680)の孫。董其昌(1592-1680)の絵画理論を継承した。「清六大家」の一人に数えられる。
山体は「之」の字上に配置されている。「龍脈」と両側の水辺、雲などの余白に虚実が交錯し、画面の動感と気韻を高めている。本作は絹本青緑着色画で、気の向くままに筆を揮った妙趣に富んでいる。制作年は記されておらず、款署の「臣」という字から、皇帝の命を受けて制作した作品の一つだと知れる。
清 郎世寧 万寿長春
郎世寧(Giuseppe Castiglione,1688-1766)、イタリアのミラノ出身。19歳でイエズス会会士となり、27歳の時に清国へ渡った。康熙朝、雍正朝、乾隆朝に仕え、宮廷画家に西洋の遠近法を伝授し、中西融合の新しい院体画風を創出した。
満開の月季(バラ科の花)や石竹、蝦夷菊が、霊芝の傍らにある岩の回りに咲いている。作品名の「万寿」は、臣下が皇帝と皇后の誕生日を祝って述べる敬語表現である。花々の描き方や着色の立体感に工夫が見られる。山石は唐岱(1673-1752以降)との合作である。