院所蔵善本古書精粋,陳列室:104
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清宮蔵書

国立故宮博物院が所蔵する善本古書の殆どは清朝宮廷から受け継いだもので、元々は外朝と内廷の各殿閣に収められていました。外朝に位置する武英殿は、専ら朝廷敕修書籍の機関、文淵閣は皇室の気概を発揚するための宮廷蔵書楼でした。内廷は本来、皇帝や皇后、妃嬪達の私的な住居で、その間にある養心殿・昭仁殿・慈寧宮等にも、皇帝や王宮で暮らす人々が普段閲覧したり、或いは個人が秘蔵したりしていた善本古書が置かれていました。

清代の皇帝は一体どの様な書籍を読み、そして殿内にはどの様な書籍が収蔵されていたのでしょうか。参観なさる皆様は、この度の展覧テーマ、「武英聚珍」、「文淵瑰宝」、「天祿琳琅」、「宛委別蔵」、「龍蔵経」の様々な説明や図書の展示を通して、清朝皇帝主導に於ける宮廷蔵書の中心思想を理解することができ、又ここから、皇帝が文化を崇敬し道を重んじた政教態度や文治功業を宣揚した偉大な志を探索できることでしょう!

武英聚珍

武英殿は、明朝永楽十八年(1420)に落成し、当初は皇帝が政務を執り行う所でした。康熙十九年(1680)に至り、清朝はここに造辦処を設立し、工芸制作と同時に図書刊行の責任を負うこととなりました。雍正七年(1729)、武英殿造辦処は修書処と名を改め、この時から専ら朝廷敕修書籍の機関となりました。所謂当時の国家出版社と言うことができます。

清の時代、「欽定」、「御製」など、臣下が奉敕修撰した書籍が次々と出版され、皇帝が個人の意志、政治的権威、文化の力量を宣揚する公の出版物となりました。これら武英殿に於いて版木に彫り印刷された書籍は、後に「殿本」と称されています。内容が豊富で、校勘が綿密に行き届いているだけではなく、選び用いられた字体、紙や墨、装丁の材料等の他、殊に装丁にはこだわりが見て取れ、作りは極めて華やかで優雅です。乾隆三十八年(1773)、《四庫全書》の編纂副総裁であった金簡(?-1794)は、一部の珍しい善本を木の活字を以て植字印刷することを建議し、皇帝の支持を得ると同時に、「活字」に「聚珍」と言う美名を賜えました。この後、「武英殿修書処」は絶えることなく一三四種の書籍を植字印刷し、既に木版印刷された四種も合わせて「武英殿聚珍版叢書」と名付け、清朝殿本図書の重要な部分となっています。

武英聚珍

文淵瑰宝

文淵閣は明の成祖永楽年間に創建され、当初は宮廷の書庫でしたが、明末、火災に遭い焼失してしまいました。乾隆三十九年(1774)、高宗は紫禁城の外朝に、東南を向いた文淵閣再建の令を下し、二年の月日をかけて竣工しました。その目的は、史上最大の規模を誇る偉大な巨編─《四庫全書》を収蔵することでした。

乾隆三十七年(1772)、安徽の提督学政であった朱筠(1729-1781)が《永楽大典》の佚書の校勘を奏上。高宗乾隆帝は各省に勅令を発し、各省の書籍を収集。次いで翌年乾隆三十八年(1773)に設四庫全書館を開設し、内閣大学士である于敏中(1714-1779)に命じて、《四庫全書》を経、史、子、集の四部に分け、計三千四百余種の歷代図書の精華を編纂させました。この巨作を大切に収蔵するため、乾隆帝は杭州の織造署の寅著(生卒年不詳)に対し、浙江省寧波に赴き、著名な書庫「天一閣」の建築様式を調査すべく勅命を下すと同時に、「天一生水」、「地六成之」の概念を手本とし、「文淵閣」を建設しました。第一部に当たる《四庫全書》は乾隆四十六年(1782)浄書完成後、この「文淵閣」に収納されました。全書合わせて六一四四函、三六三八一冊に装丁され、その精緻な編集、謹厳な校勘、優雅な装丁は、現在当博物院の最も特色溢れた善本収蔵品となっています。

文淵瑰宝

天祿琳琅

「天祿琳琅」は乾隆帝が歷代の名刻版本を収集し、昭仁殿にまとめて収納された善本と特蔵品を指します。昭仁殿は当初、康熙帝の読書や起居の為の殿閣でしたが、乾隆帝は祖父を記念するため、特に歴朝の善本図書を珍蔵する所に改めると同時に、宋、元、明の善本及び稀なる秘笈(書物を秘蔵する箱)を存続するために、漢代「天禄閣」蔵書故事を引用し、「天祿琳琅」と命名しました。乾隆四十年(1775)、乾隆帝は大学士の于敏中らに「天祿琳琅」の蔵書解題目錄の編纂を命じ、名付けて《天祿琳琅書目》としました。嘉慶二年(1797)、昭仁殿は火災に遭い、殿内の善本全てが消失。嘉慶帝は復旧を試み、大学士の彭元瑞(1731-1803)らに命じて《天祿琳琅書目後編》を新たに編成させました。当博物院が所蔵する「天祿琳琅」図書の殆どが嘉慶年間に新たに整理編集された貴重な善本です。

天祿琳琅

宛委別蔵

「宛委別蔵」は嘉慶年間、浙江の学政であった阮元(1764-1849)が《四庫全書》を続けて編纂するために、東南一帯に足を運び、三回に分けて書籍を進呈しました。嘉慶帝はその労を賛美し、夏の禹が「宛委山」に登り、金簡玉字の書(金の板に書かれた書物)を得た故事にちなんで、「宛委別蔵」の名を与え、養心殿に収納しました。

阮元の意は、乾隆帝時期の《四庫全書》文化作業を継続することにあり、そのため、阮元が収集した殆どが四庫館臣未收の書でした。阮元は原刻本を徴集した他、逐一丁寧に浄書し自ら提要を編集しました。嘉慶帝は次いで人に命じて整理させ、《宛委別蔵総目提要》、及び《宛委別蔵続編書目提要》を編纂。合わせて一七○余部を数えます。また最初に編纂された《四庫全書》に倣い、経、史、子、集の四部に分けると同時に、蓋の付いた箱の装丁で、各書のはじめの頁の上方には「嘉慶御覧之宝」の璽印が見られることから、嘉慶帝が全書を如何に珍重していたかをうかがい知ることができます。民国以後、清朝の善後委員会が宮中の物品を点検し調べた時、「宛委別蔵」は一六○部を残すのみとなっていました。

宛委別蔵

龍蔵経

《龍蔵経》は《蔵文龍蔵経》の略称で、康熙帝の祖母である孝荘太皇太后のボルジギン氏ブムブタイの命によって作られました。內容は、秘密、般若、宝積、華厳、諸経、戒律の六大部を包括しており、釈迦牟尼が生涯をかけて説いてきた「教法」と規律を記した「律典」をまとめたチベット語の訳本です。

秘殿珠林初編》の巻二十四の記載によると、「(孝荘)太皇太后が制作を命じたもので、(護経板には)宝石が象嵌され、泥金を用いて磁青紙に書かれたチベット文字の「龍蔵経」一部で、計一〇八書函(箱)あり、内容は釈迦牟尼仏の口伝の諸経である」とあります。《龍蔵経》は、五万余りの経葉文を包括しており、元は慈寧宮花園の仏堂咸若館殿内に収納されていました。蔵文経文は、特製の磁青箋紙に泥金を用いて書かれており、泥金は品位に満ち、書体も端正を極めています。上下の経板は七百五十六尊の諸仏が彩色で描かれ、造像も華麗です。その周りには様々な宝石が嵌め込まれ、その表は黃、赤、綠、青、白五色の刺繍経簾で保護されています。各函の経葉、経板の外側には、意匠に用いる絹・棉などを素材とした材質の経衣を配し、五色の経板を縛る絹糸が付いており、一番外側は、仏典を守るために黄色い絹の衣で包み込みます。覆いも意匠も非常に凝っており、皇家の気風に満ちており、当博物院が所蔵するチベット伝来仏教法典の中で、最も注目を浴びています。

龍蔵経