展示物の紹介
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宋 范寬 秋林飛瀑宋 范寬 秋林飛瀑
- 絹本着色 軸
- 181 x 99.5cm
- 国宝 2012年3月文化部により指定
范寛(950頃-1031の間)、陜西華原(現在の陝西省耀県)の人。本名は中正。大らかな人物だったことから、范寛と呼ばれた。山水の眺めを描く力強い筆致は素早く、墨色は濃く重い。特に雄壮偉大な山形や山体の量感を見事に表現した。
この作品は無款だが、『石渠宝笈三編』は范寛作としている。高低異なる山々と生い茂る樹木、深い谷間の幽玄な風景が描かれている。
赤く色づいた楓の葉が渓流に散り落ちる様は、唐代の崔信明(7世紀)の名句「楓落呉江冷」に重なる。山石の皴紋に側筆の斧劈皴を用いているが、范寛作「谿山行旅図」の雨点皴とは異なっており、南宋の李唐(1049-1130以降)と蕭照(12世紀)の画風により近いことから、ほぼ同時代に制作された作品と推測される。
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宋太祖坐像宋太祖坐像
- 絹本着色 軸
- 191 x 169cm
- 本院による暫定的分類
国立故宮博物院は計四幅の宋太祖肖像画を所蔵しているが、立軸の全身像は本作のみで、ほかは全て半身像である。画中の太祖趙匡胤(927-976 在位期間960-975)の肌は赤黒く、丸襟の淡い黄色のゆったりとした衣服を身にまとっている。腰には玉束帯を締め、黒い皂紋靴をはき、方形で硬く、細長い飾りのついた烏紗帽をかぶっており、その姿は威厳に満ちている。
作者の款印はなく、椅子の肘掛の空白箇所に貼られた紙片に「宋太祖」と記されているのみである。この紙片は、清代に再表装された際に貼られたものらしい。画史によれば、王靄と牟谷、僧道輝がそれぞれ太祖の肖像画を描いているが、比較可能な画跡は現存しておらず、この肖像画が上述の三人の作であるか否かは、今後の考証が待たれる。
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宋仁宗后坐像宋仁宗后坐像
- 絹本着色 軸
- 172.1 x 165.3cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 本院による暫定的分類
- 2018/10/04-11/14
清朝宮廷南薫殿旧蔵品で、款印はない。人物の表情は生き生きとしており、想像の産物とは思えない。精確な用筆、丁寧な着色も一流と言える水準に達しており、当時の名家の手による作と考えられる。
宋仁宗は二人の皇后を立てた。一人は郭皇后、もう一人は慈聖光献曹皇后である。郭后は廃されため、これは曹后の肖像画であろう。褘衣(祭服)と釵冠を身につけた皇后の姿はこれ以上ないほどに華やかで、両側に控える侍女も艶やかな衣装に身を包み、髪に大きな簪花をつけている。本院が所蔵する、皇后一人の坐像に比べると、高貴な雰囲気が際立つ肖像画となっている。宋代の写実的絵画を代表する作品である。
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宋人 富貴花狸宋人 富貴花狸
- 絹本着色 軸
- 141 x 107.3cm
- 国宝 2012年3月文化部により指定
牡丹の根元に、石鈴に繋がれた白黒のぶち猫がいて、大きく見開いた目が爛々と輝いている。「猫」と「耄」は語呂合わせで70歳以上の年長者を表し、牡丹の花は富貴吉祥の象徴とされることが多く、この作品は長寿と富貴を意味している。
卓越した観察力を持つこの画家は、猫の特徴を細部まで丁寧に描写しており、猫の細かく柔らかな毛も含めて立体的に表現している。牡丹の花と葉は細い線で輪郭が描いてあり、そこに色を重ねてぼかしている。繊細な表現に典雅な趣がある。北宋画院は写生に重きを置いたことから、『宣和画譜』(1120)には同様の題材を扱った絵が多数収録されている。この作品は無款だが、北宋後期の宮廷画院に属した名家の作と思われる。
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宋人 卻坐図宋人 卻坐図
- 絹本着色 軸
- 146.8 x 77.3cm
- 国宝 2013年8月文化部により指定
この作品には、漢文帝(紀元前179-157)時代の史実が描かれている。ある日、文帝が后妃らを伴って上林苑に行幸した際、中郎の爰盎(紀元前200-148頃)が、「妃子の身分でしかない慎夫人が帝王の隣に座るべきではない。尊卑の序が失われ、慎夫人に禍が及ぶことになる。」と、面と向かって文帝を諌めた。文帝はこの諫言を謙虚に聞き入れ、後に慎夫人も爰盎に褒美として金を与えたという。
この種の主題は古代の帝王に学ぶ意図があるが、諫言を受け入れる君主の寛容さを知らしめる政治的なプロパガンダでもあった。画上に作者の落款はないが、人物の線は力強く安定感があり、庭園の樹石も丹念に描写されており、筆致も美しく整っていることから、南宋宮廷画家の手による作と推測される。
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宋 易元吉 猴猫図宋 易元吉 猴猫図
- 絹本着色 卷
- 31.9 x 57.2cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 本院による暫定的分類
- 2018/11/15-12/25
易元吉(11世紀後半)、現在の湖南省長沙県の人。天賦の才に恵まれ、花鳥画を専門に描いていたが、後に趙昌(10-11世紀の間)の画作を目にして深い感銘を受け、古人が未踏の境地に達したいという志を立て、キバノロ(鹿に似た小型の動物)や猿の絵で名を知られるようになった。
画面左上に徽宗帝の御書画題がある。右側に木の杭に繋がれた猿がいる。その前を通り過ぎようとした2匹の猫のうち1匹が黄色い猿に捕まり、抱きかかえられてしまった。慌てて逃げ出したもう1匹は、振り返って鳴き声を上げている。猿はそんなことなどおかまいなしに、子猫を弄んでいる。画家の鋭敏な観察眼を通して、猿と猫のやり取りが生き生きと描写されており、北宋絵画の卓越した写生の精神が十分に感じられる作品である。
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宋人 冬日嬰戯図宋人 冬日嬰戯図
- 絹本着色 軸
- 196.2 x 107.1cm
- 国宝 本院による暫定的分類
庭園の太湖石の傍らに咲く梅と椿の花が、青々とした竹と蘭の葉に映え、趣ある麗しい眺めとなっている。美しく着飾った姉弟が孔雀の尾羽と色鮮やかな旗を持ち、ぶちの子猫をじゃらしている。画家は細部までこれ以上ないほどに気を配り、精確に描写しており、北宋宮廷絵画の極めて優れた表現力が反映されている。
この作品の画風や人物の造形は、蘇漢臣の「秋庭戯嬰」とよく似ており、同一人物の手による作品と思われる。四季嬰戯図は四幅一組だったが、現存するのはこの二幅のみである。蘇漢臣(12世紀)、開封(現在の河南省開封市)の人。宣和年間に画院待詔を務め、宋室南渡後は紹興画院に属した。道釈画や人物画が多く、特に子供の絵を得意とした。
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唐 閻立本 蕭翼賺蘭亭唐 閻立本 蕭翼賺蘭亭
- 絹本着色 卷
- 27.4 x 64.7cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 2012年3月文化部により指定
- 2018/10/04-11/14
閻立本(?-673)は初唐を代表する人物画家で、勅命により「十八学士図」や「凌煙閣功臣図」などを制作した。
この作品には、唐太宗(598-649)の命を受けた蕭翼が、弁才和尚が所蔵する王羲之(303-361)の「蘭亭序」を騙し取った故事が描かれている。五人の人物のうち、向かい合って座る二人が弁才と蕭翼である。前かがみになった二人は互いを見つめ、口を開いてなにやら言い合っているように見える。上方に描かれた一人の僧侶が画面の奥行きを深めている。この人物の物憂げな表情は、この後、弁才が陥る苦境を暗示しているかのようにも思える。主役の緊張感に対して、茶葉を煎る童僕が生活感をかもし出している。しかし、この作品の画風は閻立本とは似ておらず、五代の顧徳謙の作、或いは宋人による模写とする説がある。
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元 趙孟頫 鵲華秋色元 趙孟頫 鵲華秋色
- 紙本設色 卷
- 28.4 x 93.2cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 2011年9月文化部により指定
- 2018/10/04-11/14
趙孟頫(1254-1322)、字は子昂、書画ともに優れていた。復古を主張し、文人書画の発展に大きな影響を与えた。
見たことのない故郷を思う周密(1232-1298)を慰めるために、山東歴城の風景を描いて見せた作品(1925年作)。この絵は三段に分かれている。一段目に華不注山、三段目には鵲山が描かれているが、どちらの山も画面の奥に配置され、中段には水面が広がり、三段合わせて広大平遠な風景となっている。その中に点在する茅葺の家屋や漁師の姿が、のどかな雰囲気をかもし出している。全体にごく単純な、抑制された中鋒を用いて、樹木や岸辺、山石、人物も簡潔に表現されており、董源(10世紀頃)から学んだ画風が見て取れる。技巧的な美を捨て去り古拙に回帰する、「借古開今」の芸術思想が感じられる。
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金 武元直 赤壁図金 武元直 赤壁図
- 紙本墨画 卷
- 50.8 x 136.4cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 2011年4月文化部により指定
- 2018/11/15-12/25
武元直(1149-1189に活動)、字は善夫、北平(現在の北京市)の人。山水画に優れていた。
この作品には、蘇軾(1037-1101)「赤壁賦」のイメージが描かれている。高い冠帽をかぶった蘇軾が友人らとともに小舟に乗り、赤壁の下を進んでいる。松の老木の幹が逆風に煽られてたわみ、高々と聳える赤壁は激流に抗いつつ渦に洗われ、峻厳壮大な風景が広がっている。山石の多くに中鋒と側鋒が併用されており、まず先に平行に並ぶ皴線で大きさと向きの違いを面で表し、その面で山体が構成されている。薄墨で淡くぼかされた雲霧によって、切り立つ絶壁とその硬い質感が強調されている。こうした簡素で明快な手法が、画面に剛健かつ宏闊なイメージを与えており、金朝の画家による伝統的山水画の継承と創造性が見て取れる。
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唐 徐浩 朱巨川告身唐 徐浩 朱巨川告身
- 紙本 行書 卷
- 27 x 185.8cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 本院による暫定的分類
- 2018/11/15-12/25
「告身」とは、古人が受け取った政府の報奨や官職の辞令を指す。この告身は768年に朱巨川(725-783)が大理評事と鍾離県令(現在の安徽省鳳陽県)の兼任を命じられた際に受け取ったもので、同時に数人が叙任され、朱巨川のほかに三人の省長官の名が記されており、尚書省官印もある。唐代告身制度の貴重な史料である。
太く厚みのある線と飽満な筆画が特徴的で、徐浩(703-782)の風格に近い。しかし、字形はやや高長に偏り気味で、徐浩の書とは異なっている。徐浩は肅宗(756-762)の時代に重用されて多数の詔令を書いた。中唐公文書の書法の趣を代表するにふさわしい書である。だが、唐代の制度では、告身は書令史または書吏が書き写していたことから、或いは徐浩の書法から影響を受けた作なのかもしれない。
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晉 王羲之 平安何如奉橘三帖晉 王羲之 平安何如奉橘三帖
- 紙本 行書 卷
- 24.7 x 47.3cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 2012年3月文化部により指定
- 2018/10/04-11/14
王羲之(303-361)、東晋の書法家。今草と行書の典範を創出し、世に書聖と讃えられる。
「平安」と「何如」は王羲之がしたためた二札の書簡で、「奉橘」は「何如」帖の末尾に附されていた。流伝の過程で「平安」は最後の二行が失われ、「奉橘」は独立した書となった。この三帖は明代末期に合装されて巻となり、ほかから欧陽修(1007-1072)などの観款を移して合わせてある。この三帖は唐人が双鉤廓填により模写したものである。連綿する箇所は筆先が露わになり、遅速や方円、提按の変化を融合させた、書聖の高度な筆法が見て取れる。一文字の造形も大小、俯仰、開合、欹正の変化も類似の箇所がなく互いに映え、王羲之の創造力が存分に発揮された書である。
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元 鮮于樞 透光古鏡歌元 鮮于樞 透光古鏡歌
- 紙本 行書 冊頁
- 30.5 x 19.8cm
- 国宝 2012年3月文化部により指定
鮮于樞(1246-1302)、祖籍は漁陽(現在の河北省)、字は伯機。書法と作品の鑑賞に優れていた。元代三大家の一人。鮮于樞が提唱した、書宗は晋唐にあるとする論は大きな影響を及ぼした。
「透光鏡」とは、鏡面に光が反射すると裏側の模様が映し出される古代の銅鏡のことで、鮮于樞も1枚所蔵していた。この冊には麻九疇(1174-1232)の賦が収録されており、鏡に託して比喩的に表現したものか、或いは自身が所蔵する古鏡と何らかの関わりがあったのかもしれない。制作当時は手巻だったと思われ、後人により冊に改装された際に、字句がいくらか欠けてしまっている。全体に中鋒が多用されており、丸みのある線は力強く、体勢は大きく開き、「瘞鶴銘」に近い。整った字形に露鋒と角の転折の筆法が合わさり、虞世南(558-638)と柳公権(778-865)の風格も見え、生気溢れる雄健な書となっている。
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唐 玄宗 鶺鴒頌唐 玄宗 鶺鴒頌
- 紙本 行書 卷
- 24.5 x 184.9cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 2012年3月文化部により指定
- 2018/11/15-12/25
唐玄宗(685-762)、名は李隆基、唐朝第七代皇帝。多芸で英明、隷書と行書に優れていた。
鶺鴒鳥(セキレイ)は仲間と互いにやり取りしながら飛んだり、歩いたりする習性があり、古くは『詩経』にも兄弟愛の象徴として登場する。721年の秋、無数のセキレイが宮殿に集まって来るのを見た玄宗は、自らこの書にその様子を描き留めたという。玄宗の書は「蘭亭」と「集字聖教」の風格を直接継承している。例えば、「楽」や「詠」、「懐」、「左」、「趣」、「虚」、「霜」などの文字にそれが見える。側鋒と頓按を好み、起筆と収筆、横折の線に筆先が露わにのぞく箇所が多く、安定した筆力に精神力が溢れ、雄健で開放的な雰囲気もあり、盛唐の豊潤な美が感じられる。
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宋 高宗 賜岳飛手敕宋 高宗 賜岳飛手敕
- 紙本 行書 卷
- 37 x 61.4cm
- 国宝
- 2011年4月文化部により指定
宋高宗(1107-1187)、名は構、徽宗(1082-1135)の九男。黄庭堅(1045-1105)から二王にまで遡って学んだ書で独自の風格を築いた。
本作は岳飛(1103-1142)に宛てた書信。「淮西軍叛」という語から判断すると、1137年の秋にしたためた書で、辺境の防衛に関する事柄と労いの言葉が書いてある。書体は真行の間にあり、字体は時に大きく時に小さくなり、字間は広く、行気は一定している。「盛」や「霜」、「寒」、「良」、「帶」、「管」、「至」、「体」などの文字に、「蘭亭」と「集字聖教」の筆意が僅かに感じられる。しかし、開いた字形、均等な布白、側鋒と円転、たっぷりと豊かな線が多く、智永(6-7世紀)の影響が見られる。臨古により培われた、書学への造詣の深さがうかがえる。
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宋 米芾 致希声吾英友尺牘並七言詩宋 米芾 致希声吾英友尺牘並七言詩
- 紙本 行書 冊頁
- 30 x 33.5cm
- 国宝
- 2013年1月文化部により指定
米芾(1051-1108)、書画をよくし、書画作品の鑑識にも優れていた。北宋四大家の一人に列せられる。
この作品は、1092年に初めて雍丘県令(現在の河南省杞県)に任ぜられた際、黎錞(1015-1093、字は希声)宛てに書かれた書簡である。「非才当劇」(非才ながら大任を仰せつかった)という一文から、米芾の得意げな様子がうかがえる。文末には、友人らで集った際の思い出を詠んだ詩が添えられている。「劇」や「咫尺」、「敬」、「英友」、「十客」などの連筆で書かれた文字は筆先が露わになっており、滑らかで舞い踊るかのような躍動感がある。「𡙇然」や「慶侍」、「奉寄」、「希声」などの文字は、少女の髪飾りのように柔和で美しい。特に「槐」と「蔭」の2文字は、太く重厚な線で書いてあり、溌剌として軽やかな姿態が見られる傑作である。
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宋 蘇軾 尺牘宋 蘇軾 尺牘
- 紙本 行書 冊頁
- 23.2 x 17.8cm
- 国宝
- 2015年5月文化部により指定
蘇軾(1037-1101)、字は子瞻、号は東坡。北宋四大書家の一人。
この作品は蘇軾の尺牘二札からなる。右幅は「宝月帖」と言われる。「大人令致懇」、「催了礼書」云々から、1065年に杜叔元(11世紀中期頃)宛てに書かれた書簡だとわかる。「大人」は蘇軾の父蘇洵(1009-1066)、「宝月」は親族の年長者蘇惟簡(1012-1095)、「令子」は叔元の息子である杜沂(?-1094)を指す。杜沂の字は道源で、1080年に書かれた左幅「喫茶帖」の受取人である。「孟堅」は杜沂の息子杜伝(11-12世紀頃)を指す。この二札の間には15年もの開きがあるが、運筆の速さ、鋭利な線、自在で瀟洒な書風に違いは見られない。前者は豊妍、後者は清俊、いずれも至宝というにふさわしい書である。
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宋 夏珪 渓山清遠宋 夏珪 渓山清遠
- 紙本墨画 卷
- 46.5 x 889.1cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 2011年4月文化部により指定
- 2018/10/04-11/14
夏珪(1195-1224間に活動)、浙江銭塘(現在の浙江省杭州市)の人。南宋中期の宮廷画家。画面の片側に偏った構図が特徴的で、このような構図を「夏半辺」と言う。
この作品には、山脈と川が交錯しながら連綿と続く風景が描かれている。異なる視点から様々な山水の組み合わせが描かれており、疎に密にと、リズミカルな構図が形成され、無駄のない洗練された表現力が見られる。夏珪は斧劈皴で堅い岩石の質感を表現するのが巧みで、先に乾筆で輪郭を取ってから大量の水でぼかし、水墨が溶け合うような効果を創出した。墨韻の変化に富み、風景全体に奥行きの深さと清らかな静けさを感じさせる。この種の技法と風格の伝承が、明代浙派の形成に大きな影響を与えた。
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宋人 松泉磐石宋人 松泉磐石
- 絹本墨画 軸
- 160.3 x 96.8cm
- 国宝
- 2011年4月文化部により指定
水辺の巨大な岩石が描かれている。前後して立つ松の木が岩石の左側に聳えている。淡くぼかされた葉によって松の幹が際立って見え、やせ細った幹や枝が天に向かって高く伸びている。近景の左側に描かれた岩に根を張る枯れ木、その折れ曲がった枝に、李郭の蟹爪枝の筆意が僅かに感じられる。中景には勢いよく迸る川が描かれており、急流が岩を洗っている。遠景に見える早瀬と中洲は重なりながら、雲霧漂う天の際へと続いている。
「松石」や「樹石」─この種の表現を学ぶことを、研究者は「松石格」と称し、山水画の範疇に置く。この画題は8世紀にはすでに発展しており、北宋時代、李成の寒林、郭熙山水画派の興起にともない、大いに流行した。
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宋 蕭照 画山腰楼観宋 蕭照 画山腰楼観
- 絹本墨画 軸
- 179.3 x 112.7cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 2011年4月文化部により指定
- 2018/10/04-11/14
画面左側に切り立つ懸崖が描かれている。角ばった岩石は険しく、その傍らを川が流れ、大きく開けた清遠な空間が広がっている。全体の配置を見ると、北宋山水の巨障を使った表現からはすでに脱しており、堅く締まった岩石、朦朧とした遠山が虚実交わる風景を作り出している。
中段の絶壁に「蕭照」の落款がある。蕭照(12世紀に活動)、濩沢(現在の山西省陽城県)の人。南渡後、李唐に師事して絵画を学び、高宗紹興年間(1131-1162)に画院待詔となった。蕭照の描く特異な形状の松や岩石は、筆力雄健で墨色は濃く、皴法は力強い。陰鬱で重々しく、厳粛な気韻がある。斧劈皴の用い方を見ると、李唐の筆法に強く影響を受けているのがわかる。
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宋人 翠竹翎毛宋人 翠竹翎毛
- 絹本着色 軸
- 185 x 109.9cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 2012年3月文化部により指定
- 2018/11/15-12/25
季節は冬、岸辺の斜面につがいのコウライキジが蹲っている。その上を覆う青々とした竹の間で、4羽のカオグロガビチョウが枝に留まったり、飛び立とうと翼を広げたりしている。動と静が互いに美しく映え、画面にかなりの活力を与えている。
景物の多くに「双鉤填彩法」が用いられており、運筆の提按は変化に富んでいる。斜面の岩や竹の葉の輪郭線に僅かだが震えが見え、李煜が創出した「金錯刀」の筆意が強い。オスの胸と腹の筆致に若干の弱々しさがあるが、これは画絹が破損した際に補筆された箇所である。野鳥の暮らしの一齣を捉え、その情景が自然に生き生きと描写されている。無款だが、南北宋の間に制作された作品と推測される。
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宋人 折檻図宋人 折檻図
- 絹本着色 軸
- 173.9 x 101.8cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 2011年4月文化部により指定
この作品は『続資治通鑑長編』から題材を得て、前漢時代の槐里令朱雲が諫言した故事が描かれている。漢成帝(在位期間紀元前33-7)の時代、安昌侯張禹は皇帝の寵愛をいいことに驕り高ぶっていたので、朱雲が大勢の前で糾弾したたところ、皇帝の怒りに触れてしまった。皇帝は御史に命じて取り押さえようとしたが朱雲は従わず、抵抗した朱雲が欄干にしがみつくと、欄干が折れてしまった。幸い辛慶忌が助け舟を出してくれたことから、朱雲は罪を許された。その後、成帝は欄干の折れた箇所がわかるように修理を命じ、それを戒めとした。
庭園の景物が精細な筆致で丹念に描かれているが、背景と史実に若干のずれがある。画家の落款はないが、南宋の名家の作と思われる。こうした聖人賢者の故事を描いた教訓的な絵は、謙虚に諫言を受け入れる君主の聖徳を顕彰する意図があった。
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宋 馬麟 三官出巡図宋 馬麟 三官出巡図
- 絹本着色 軸
- 174.2 x 122.9cm
- 国宝
- 2011年11月文化部により指定
道教では、天官が福を授け、地官が罪を赦し、水官が厄を払う。この三官は玉皇大帝に次ぐ崇高な存在とされる。本作には、三官が巡視に出る場面が描かれており、画幅は上・中・下に分かれている。雲に乗り、波を駆る三官の周囲を、旗を掲げた護衛が取り巻く緊密な配置となっている。三官に従う者たちは仙人のほか、姿かたちも様々で、表情もユーモラスな鬼卒らいる。諸神は衆生を守護するため、世の中の善悪を視察して回り、それによって人の世の禍福を定めるといい、三官は威厳溢れる姿に描かれている。
旧題は馬麟(1195–1264に活動)作。家学を継承した馬麟は、寧宗嘉泰年間(1201-1204)に画院祗候となり、寧宗と楊皇后に重んじられた。本作の画風は馬麟とは異なっており、馬麟よりもやや後の時代に制作された作品と考えられる。
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宋寧宗后坐像宋寧宗后坐像
- 絹本着色 軸
- 160.3 x 112.8cm
- 国宝
- 2011年4月文化部により指定
- 2018/11/15-12/25
拱手して端座する寧宗皇后が描かれている。龍鳳花釵冠をつけ、衿を重ねた濃紺のゆったりとした袖の衣服を着ている。服には翠翟(尾の長いキジ)の柄があり、その下に白紗の単衣を付けている。衣服の衿と袖口、裾に赤い帯状の縁取りがある。『宋史・輿服志』に照らし合わせてみると、皇后が冊封を受けた際に身に付けていた、貴重な礼服と思われる。
『宋史・列伝』によれば、南宋寧宗(在位期間1195–1224)は二人の皇后─恭淑韓皇后(1162–1232)と恭聖仁烈楊皇后(1162–1232)を立てている。前者は宋代の賢相韓琦の6代目の子孫にあたり、権臣韓侂胄の兄弟の孫娘である。後者は学識が深く、『南宋画院録』によれば、寧宗朝が所蔵していた多数の名画は、いずれも恭聖仁烈楊皇后が鑑定して、題識を入れたという。
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宋 銭選 桃枝松鼠宋 銭選 桃枝松鼠
- 絹本着色 卷
- 26.3 x 44.3cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 2012年3月文化部により指定
- 2018/11/15-12/25
銭選(1235頃–1307頃)、字は舜挙、浙江呉興(現在の浙江省呉興区)の人。詩文、書画ともに巧みで、「呉興八俊」の一人に数えられる。元代になってからは隠居して仕官もせず、絵画で生計を立てた。絵画だけでなく人柄のよさも讃えられた。
銭選は手折った花木を好んで描いた。この着色画には、桃の枝に留まるリスが、みずみずしい桃の実をじっと見つめる様子が描かれている。全体に簡約な構図、清麗な趣ある着色、線は細いが力強い。リスの毛の柔らかな質感が細かな線で表現されており、濃墨で足の爪と眼が描かれ、リスの表情や動きを見事に捉えている。子孫繁栄を意味するリスと長寿を祝う桃の組み合わせから、言葉で表さずとも吉祥の含意が一目でわかる。
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宋 陳居中 文姫帰漢図宋 陳居中 文姫帰漢図
- 絹本着色 軸
- 147.4 x 107.7cm
- 国宝 展示期間制限あり
- 2011年4月文化部により指定
- 2018/10/04-11/14
蔡文姫(162-229)、後漢の蔡邕の娘で、博学多才だったという。興平年間に勃発した戦乱の最中、匈奴に拉致されて南匈奴の左賢王に嫁いだが、後に曹操が貴重な金で蔡文姫を買い戻した。歴代に「文姫帰還」を題材とした絵画は多く、この作品には『胡笳十八拍』の「辞別」─左賢王と文姫が別れの際に、杯を交わして対話する場面が描かれている。文姫の境遇は、金の捕虜となった徽宗と欽宗の境遇にも重なる。画中の人物の衣冠服飾は宋と金の特色に合致することから、宋代の出来事を故事に喩えて表現した作品であろう。
作者の款印はなく、寧宗嘉泰年間(1201-1204)の画院待詔陳居中(1195-1224に活動)の作と伝えられる。