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庭園の奥深くから白く輝く秋の月が見える。松や青桐、芭蕉が豊かに生い茂り、芙蓉や立葵、雛菊などが競うように香りを放っている。盛装の婦人が身をかがめ、両手に持った明珠を洗おうとしている。婦人の周囲には三人の侍女がいる。向かいの一人は案(物を置く台)で香を焚き、背後の一人は奩(化粧道具を入れる小箱)を持ち、もう一人は琴を抱えている。女性が月に福を願う風習は、唐代以降にかなり流行した。
この作品には作者の款印はなく、旧籤の題は「五代人浣月図」である。仕女が身に付けている半袖の衣や香を焚く侍女が腰に縛り付けている柄の長い紈扇などは、10世紀の服飾様式に合致するが、樹木と岩石の描き方に誇張が見られるなど、宋代末期から元代初期の特徴がすでに現れていることから、南宋宮廷の画師による模写作品だと思われる。
整った繊細なタッチで描かれている。水辺に茅葺の水榭(楼台)があり、格子戸に半ば隠れた人物が寝台に寝そべっている。寝台の脇に墨竹の描かれた屏風が見える。人物は両目をわずかに開いている。寝台の前には暖炉(暖房器具の一種)が置いてある。隣に続く小部屋の簾の奥には持ち手付きの壺が置かれている。外は真っ白な雪に覆われており、枯れ枝にも雪が降り積もっている。趣深く清らかな風景が描かれている。
左上の角に「千里」という杯形の印があり、趙伯駒(1120頃-1162頃、字は千里)の作品だと伝えられる。趙伯駒は北宋から南宋にかけて活躍した重要な画家の一人で、青緑山水画を得意としたが、残念ながら真跡と確定できる伝世作品は一幅もない。この作品は辺角構図となっており、斜面の石も側筆の皴法で描かれていることから、南宋に至ってからの作品だとわかる。
朱徳潤(1294-1365)、字は沢民。本籍は睢陽(現在の河南省商丘市)だが、後に乱を避けて呉郡に転居した。延祐6年(1319)、趙孟頫(1254-1322)の推挙により駙馬太尉瀋王に紹介され、元仁宗(在位1311-1320)に翰林文字兼国史院編修に任ぜられた。著書『存復齋集』が残されている。
松風がそよぐ中、琴を奏でながら語らう文士が描かれており、琴の音色が自然に溶け込んでいるようである。山水や松の木、岩石の描き方は五代の李成(919-967に活動)と北宋の郭熙(11世紀後半に活動)から学んだ法である。この作品は高昌人の慶童(?-1368、号は正臣)が収蔵していたことがあり、「正臣家蔵珍玩」という印がある。
張宏(1577-1668以降)、字は君度、号は鶴潤。呉郡(現在の江蘇省蘇州市)の人。山水画を得意とし、湿潤な墨色で描く山石樹木や短い線を重ねる筆法を巧みに用いた。その画作には独特の風格が漂い、構図にも新鮮味がある。
この冊には包山の勝景十箇所を描いた十幅が収録されている。太湖に位置する包山は四方を水に囲まれているため、この名がある。洞庭山、林屋山とも言われる。山の周囲には嶺や丘が重なり、生い茂る樹木や平野も見える。寺院の鐘の音や読経の声が聞えてくるようで、正に別天地のような風景が描かれている。蘇州の文人蔡羽はこの地に隠棲し、号を林屋山人とした。蔡羽に師事した王寵も包山精舎で学んだことがある。大自然の風光と人文的な精神が豊かに感じられる絶景である。この度は「林屋洞」、「消夏湾」、「柳毅井」の三開を展示する。
蒋廷錫(1669-1732)、字は揚孫、号は酉君、または西谷、江蘇常熟(現在の江蘇省常熟市)の人。康熙42年(1703)に進士に及第。官は文華殿大学士に至った。没骨法による花鳥画は惲寿平の画風を継承している。
岩がちの斜面の奥にブッシュカンの木が生えている。鮮明に描かれた枝葉の間に果実がたわわに実っている。「臣蒋廷錫恭画」と署名があることから、皇帝の命を受けて制作された作品であることがわかる。康熙帝による御題が『御製文集四集』に記載されている。康熙54年(1715)、承徳避暑山荘に巡幸した際の詩作である。ブッシュカンは福建から広東一帯の名産で、御苑にも観賞用として植えられていた。
胡桂、号は月香。呉(現在の江蘇省蘇州市)の人。その筆墨は乾隆帝にことのほか好まれ、呉彬「山陰道上図」の模写を命じられた。
隆福寺と隆福寺行宮は天津薊県東北の葛山大、小魚嶺の間に位置している。この作品は乾隆帝が丁卯(1747)に隆福寺行宮六景詩─「翠雲山房」、「翠微室」、「碧巘丹楓」、「天半舫」、「挹霞呌月」、「翼然亭」を詠んだ際に描かれた。複数の建物を見下ろす形で描かれており、草木が生い茂る山々が秀麗なタッチで表現されている。巻末に癸未(1763)から丙辰(1796)の間に7回に渡って書された乾隆帝による題詠がある。