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旅のかたわら美術品を楽しんだ乾隆帝

 国立故宮博物院には乾隆帝が南巡の際に鑑賞した書画作品が多数収蔵されています。この度の特別展では6度行われた南巡に携帯された作品を時期ごとに展示いたします。また、乾隆帝がどのようにして各地の名勝にふさわしい作品を選んだのか、作品の選出と現地の作者、その地の風景、歴史的な出来事に関連した作品に合わせて、旅のかたわら美術品を楽しみつつ詩を詠んだ、乾隆帝の旅の様子を南巡のルートに沿ってご紹介します。このほか、乾隆帝が幾度も旅の供とした作品を通して、同一の作品と主題で繰り返し詩作した乾隆帝の一種独特の習慣を各時期ごとにご覧いただきます。

明 王紱 墨筆山水

  1. 形式:軸
  2. サイズ:157 x 67.2cm

 乾隆帝から高く評価された明代の画家王紱(1362-1416)は無錫出身で、九龍山人や鰲叟などの号がある。墨竹画で名を知られる。山水画は元代文人の画風を継承し、呉派の先駆的存在でもある。この作品には隙間なく重なる山々と樹木が描かれている。近景の岸辺近くに漁船が見える。その内の1艘は煮炊きの最中、別の1艘は食事中で、船上に洗濯物が干してある。中景の船は帆を畳んでいるところで、右手の山道を進む旅人は町に向かって道を急いでいる。日暮れ時に帰宅する人のいる風景が描かれている。

乾隆帝は旅の途中でこの作品を眺めたが、山水の様子を適当に見たわけではなく、ごく小さな舟中の暮らしにも目をやり、その点を中心に詩作した。この点からも乾隆帝がどれほど丁寧に、注意深く絵画を鑑賞していたかがよくわかる。

明 王紱 墨筆山水 軸

明 陳祼 洗硯図

  1. 形式:軸
  2. サイズ:122.4 x 51.5 cm

 明代蘇州文派の画家陳祼(1563-1639頃)が、古硯の収蔵に熱心だった友人陸子垂に請われて描いた作品。乾隆帝による詩句「陶泓三沐更三薫、袖手臨流看墨雲」は、前景の腕組みをした文士が足を止め、せせらぎで洗われる硯を眺めている様子を描写したのだろう。御製詩の年款は「壬午春日」とあり、『御製詩三集』にある3度目の南巡から帰還後の閏5月という時期とは異なる。或いは詩文集の編集ミスなのかもしれない。

明 陳祼 洗硯図

宋 馬遠 板橋踏雪図

  1. 形式:軸
  2. サイズ:99 x 59.1 cm

 「板橋踏雪図」は6度目の南巡に携帯された作品で、御題詩の紀年は「甲辰」とあることから、閏3月に帰還途中の揚州一帯で描かれた作であろう。題詩の最後の二句「題者能画復能詩、蒙古豈無人中玉」は右側の題詩を記した伯顔不花を指す。この10日ほど前に乾隆帝が題を入れた「古壑雲松」の作者であるため、「題者能画復能詩」と書かれている。

画面左下角の「河中馬遠」は後に書き加えられたもので、岩石の造形や人物の輪郭線、衣服のひだの描き方、樹木の枝の角度などを見ると、明代の馬軾(15世紀前期~中期に活動)の作と考えられる。この作品も馬遠の風格や特色に倣った表現が見て取れる。乾隆帝が馬遠の佳作と考えたのも無理はない。

伝宋 馬遠 板橋踏雪図

明 崔子忠 画蘇軾留帶図

  1. 形式:軸
  2. サイズ:79.4 x 50 cm

 崔子忠(?-1644)、字は道母、明代末期の画家で「変形主義」で知られる。この作品にも見られる梅の木や岩石の角ばった描き方がその特色である。蘇軾と金山寺の僧侶仏院禅師が偈をあげている場面が描かれている。問答に負けた蘇軾が金山寺に玉帯を奉納することになった故事である。画中の蘇軾は青い帯のようなものを手にしている。これが崔子忠の想像した玉帯なのかもしれない。

3回目の南巡の際、御書房に収蔵されていたこの作品を思い出した乾隆帝は、急いで江南に届けさせて鑑賞した後、跋を入れた。それ以降、崔子忠の「画蘇軾留帶図」も南巡用の行李内に収める書画の定番となり、金山寺を訪れる度に蘇軾の玉帯とともに絵を広げて楽しんだ。

明 崔子忠 画蘇軾留帶図

元 黄公望 富春山居図

  1. 形式:卷
  2. サイズ:32.9 x 589.2cm

 乾隆帝は「子明隠君」に贈られたこの「富春山居図」こそが黄公望(1269-1354)の真蹟だと考えていた。1回目の南巡の前後は常に行李に収めておき、風光明媚な土地を過ぎる度に取り出しては詩を詠んだ。南巡も例外でななかった。題識には「六度南巡、所歴江山風物、気象万千。時展此卷印証、無不契合。」とある。5回目の南巡での題詠はないが、それを除くと、紹興や杭州、霊巌山、棲霞山など、いずれの地でも絶景を楽しみつつ記した題が残されている。

所蔵書画の中で「子明本」の「富春山居図」こそ、乾隆帝が生涯大切にした、お気に入りの道連れだった。

元 黄公望 富春山居図