兗公は唐の開国年間(712-756)顏回に贈られた諡であり、都督李庭誨宣王(孔子)は、すでに銘記したが、兗公が賞賛されていないため、曲阜県令の張之宏に文を作らせることを命じ、包文がこの書を書き、天宝元年(742)に碑を建立した。元来の碑は、目下、山東曲阜孔廟內に所蔵されている。碑中には唐高祖李淵が諡をはばかるため、顏回の子淵を子泉としたとある。書家包文の書名はないが、この碑は包世臣や康有の讃美を受けており、唐碑の中でも最も六朝の法度を具しており、古の落ち着いた趣があると見なしている。このため書壇の注目を浴びている。
沈遼(1032-1085)、字は睿達、錢塘(今の浙江杭州)の人。文章は雄壮な気概を有し、洗練されている。詩文は一家を成していた。書法を良くし、幼い頃その一家の沈傳師(769-827)から学び、晚念には王献之に学んだと述べている。書状の中に出てくる事件と、受信人の蒋之奇の大夫銜から、本書は元豊六年に書かれたことが推測できる。沈遼の字はその意を重視し、更に結字の配置を強調しており、米芾はかつてその書の配置を評している。本作は配置に心を配っており、一字一字均整を保っており、運筆はしっかりしていて重厚だが、やや堅苦しいが、行間に草書が混じり生気があり、頗る仕上げの妙を有している。
朱熹(1130-1200)、字は元晦、仲晦、号は晦庵、晦翁、考亭先生、別号は紫陽。宋代理学の集大成をなし、国家の新秩序を構築することを志とした。本札は1194年、潭州(湖南長沙)の知事の職を離れ、都へ上る途中に書いたものであり、内容は潭州の政務の引き継ぎである。六月の孝宗の死を述べてはいるが、寧宗が位を継いだ後、彼は入朝し宣教する機会を得たため憂いが喜びに変わったと認めている。本作の運筆は迅速で、点画は丸みを帯び、線は落ち着きがあり、安定且つスムーズで、全体的に行気が繋がっており、さっぱりとした自然の趣がある。
胡正言(1584-1674)、字は日従、安徽休寧の人。南京雞籠山の麓に居し、名は其斉を「十竹斉」となす。博学で文を善くし、経学・六書に精通し、大小篆書と古文奇字や兼工篆刻を善く模倣した。彼が「餖版」技法で印刷した〈十竹斉書画譜〉と〈十竹斉箋譜〉は、古代雕版套色印刷、所謂多色刷りの模範を樹立し、文人の評価を得ている。篆籀異文に精通し、数多くの古文奇字を創作しており、本作もその一例である。書風奇怪ではかりがたいが、素晴らしくきれいで、明末文人の古風を好む一面が反映されている。
許初、字は元復、号は高陽、江蘇蘇州の人。かつて南京太僕寺の主計を勤めた。平日は詩文、篆刻、書法を好み、常に文彭や文嘉と往来した。詩人王世貞ともまた翰墨の交わりがあった。この冊頁は、文嘉の良い友達である王紹岡のために、隆慶三年(1569)に書した作品である。許初は、篆書で杜甫〈秋興詩〉書き、当時としては特殊であった。全冊とも篆書で書き上げられているが、実際は楷書の運筆が混合しており、定まった筆法ではなく、起筆、收筆時の蔵鋒用筆は、点画を小さな珠のように書しており、拙い中に面白さが感じ取られる。
徐渭(1521-1593)は浙江の人、字は文長、青藤老人、青藤道士などと号される。徐渭は書法・絵画・詩文・戯曲に長け、才能を一身に集めた人物で、終生様々な間違いやすこぶる戯曲性に富んだことに遭遇するが、それを絵画や書の上に表現した。宋代の米芾を手本とし、気の赴くまま飛動している。徐渭は自らを書法は第一、詩文や絵画は第二と述べており、書法への自負が見られる。本作は、運筆はその曲折に従って婉転し、線には力が漲り、元々の詩の切々とした深い悲哀が伝わってくるようだ。
曹容(1895-1993)、台北大稲埕の人、字は秋圃、号は老嫌、斉号は澹廬。生涯を書法の教育に力を尽くし、「書道禅」の理念を提唱した台湾本土の書壇に於ける重要な書家である。書法は各書体に精通し、「迴腕執筆法」を用いた。晩年の運筆は尊厳が加わり素朴で天真爛漫であった。この軸は隷書で書かれており、用筆は平坦でシンプル。線は飾り気が無く人情味がある。間架結構で書かれた文字は落ち着きの中に変化を託しており、自然誠実の美と静謐な雰囲気の中に雄渾な筆致を兼ね備えている。曹恕氏寄贈。