筆有千秋業,展覧期間  2016年10月1日至2016年12月30日,北部院区 会場 204、206
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展示概要

書法とは、漢字文化圏特有の芸術であり、古くから中国文化の伝統の中で体系化され、日常生活にも深く根付き、古今を通じて人々に親しまれています。古より今に至る中国書道史発展の過程には、多くの人々が深い関心を寄せており、この度の特別展はそれらをご覧いただくために企画されました。

秦漢時代(前221-220)は書道の発展における重要な転換期です。まず夏、殷、周三代以来、枝分かれしていた古文と大篆、銘刻が統一され、標準的な書体─小篆が誕生しました。一方、春秋戦国時代に登場した隷書は篆書が簡略化されつつ成熟し、漢代には一般的な書体となりました。簡略化を推し進める風潮が盛んになるにつれ、隷書も変化と分化を繰り返し、その結果、草書と行書、楷書が生まれました。書体は絶えず変遷を繰り返し、魏晋南北朝(220-589)に至ると、過渡的な書風や書体の入り混じった表現が現れるなど、長い年月をかけて変化する中で、結体や筆法が自ずと規律化されていく様子が見てとれます。

続く隋唐時代(581-907)も重要な時期の一つにあたります。政治上の統一によって南北各地の書風が合流し、筆法が完成され、楷書が歴代を通じて使用される書体となりました。宋代(960-1279)以降、著名な書家の書蹟を後世に伝えるため、法帖が盛んに作られるようになりました。しかし宋代の書家は古典の継承だけでは飽き足らず、自分の個性や自然の趣を表現しようとしました。

元代(1279-1368)に至ると、復古が提唱され、晋唐時代の書法の伝統が継承された一方、伝統に束縛されない意識もしだいに高まり、明代(1368-1644)になると、縦横に筆を揮う奔放な書風が登場しました。明人の書は非常に多彩な様相を呈し、行草書の表現は特に自由奔放で、当時のあくまで伝統に則った書法と対比をなしています。その間に個性を発揮して自らの書風を確立した書家も時代の波に呑まれることなく自己表現の道を歩みました。

清代(1644-1911)以降は、三代及び秦漢時代の古文や篆書、隷書などが相継いで出土しました。これは書法にとっては天の恵みだったと言えましょう。実証的な考証学が勃興する中、書道界にも金石学が興り、刻石と法帖を照らし合わす事によって、書法の発展に古今の繋がりが見出せるようになったばかりでなく、篆書と隷書から古きを学びつつ新しい創造を目指すことが可能となり、新たな方向性が導き出されたのです。

展示作品解説

明 思宗

書九思二字

明の思宗朱由検(1611-1644、1628-1643在位)は、明朝第十六代目の皇帝。明の光宗帝の第五子で、熹宗帝とは異母兄弟に当たる。年号は崇禎、諱は荘烈(愍)帝。思宗の書は、初めは董其昌(1555-1636)に学んだとあり、草書は生き生きとして美しく、清の世祖の推賞を得たとある。本幅は大楷書で書かれた「九思」の二文字で、墨の色は奥深く、運筆は力が漲り法度があり、唐の顏真卿の書法に学んでいるようだ。作品中の玉璽「由検」もまた、あまり目にすることのできない思宗の花押である。

民国 王禔

篆書四屏

王禔(1880-1960)、原名は寿祺、字は維季、号は福庵、浙江杭州の人。書法に長けていた。篆書・隷書・楷書共に穏やかで落ち着きがある。「西泠印社」を設立し、篆刻は「皖派」と「浙西派」兩派の長所を融合し、布置(配置)は均しく穏やかで、純朴且つ密な趣がある。刻印は謹厳な規則を学び、その後、初めて自由奔放に彫ることが出来ると主張し、近・現代印学の推進に大きく貢献をした。当作品「四篆屏」は、それぞれ節錄鮑明遠〈蕪城賦〉・謝希逸〈月賦〉・沈休文〈麗人賦〉・庾子山〈鐙賦〉に分かれている。

民国 曹容

蒋経国総統 謝東閔副総統就職祝福の軸

曹容(1895-1993)、本籍は福建漳州、生まれは台北市大稲埕、字は秋圃、号は老嫌、斎名は澹廬。詩・画共に長けている。書法の作品には隸書と行草が多くを占めている。隸書は呂世宜(1784-1855)を師とし、また漢代の隷法から学んでおり、飾り気がなく直線的で、穏やかな中に変化を含んでいる。行草は気宇壮大、運筆の風格も強健である。本作品は隷書で書かれた祝賀の詞で、「典刑領袖,睿智英明;中興在望,薄海歓騰」とあり、用筆は粗渋で拙い。これは曹容晩年の風格である。

清 胡高望

書仏説大吉祥経塔

胡高望(1730-1798)、字は希呂、号は予堂、浙江仁和の人。乾隆二十六年(1761)榜眼(科挙の殿試で、第2位の成績で進士に及第した者の名称)となり、官は都察院左都御史に至る。諡は文恪。本作は、墨底の泥金でチベット式の覆缽仏塔を描いており、その中央には仏祖が端座し、周囲の四カ所には天王が侍っている。顔真卿の小楷で塔の上から下に向かい経文を書き、行ごとに線で区切り、行文の出口はあらかじめ留保していない。その間には小字が註されており、梵語の音声の合音と長音を発し、参拝時に唱える用に供しているようだ。

明 胡正言

篆書唐人詩兩首

胡正言(1584-1674)、字は曰従、新安(安徽休寧)の人、金陵(江蘇南京)に住む。明朝「武英殿」の中書舍人(官職の一つ)で、書に長け、篆書・隷書を正しく学び、規則に逸する書き方を正していた。また、絵画にも優れており、墨の製造と彩色重ね刷り刻版により、「鋀版」技芸を創造した。刻印は何震に学び、自分の意のままに作品彫った。本作は篆書で篆書唐劉禹錫〈贈劉景擢第〉と王建〈十五夜望月〉の二首で、起筆は重厚。落ち着いているが、しめくくりは飛白体であり、大胆且つ奔放さが目立つ。

宋 薛紹彭

雑書

薛紹彭(十一世紀後半の活動)、長安の人。字は道祖、号は翠微居士で、家系は河東(山西)の薛氏である。鑑賞に精しく、書法にも長けていた。書は二王(東晋の書家、王羲之・王献之の父子)に学び、晋人の残した規則を深く捉えており、書史に「其ノ書ハ王謝家子弟ノ如ク、風流ノ習ワシアリ」とある。南宋の高宗はこれを高く評価し、間接的に元代書法の復古の気風に影響を与えた。本作の詩文の書状は四段で、筆法は拙さの中に巧みさを蔵しており、まっすぐ且つものさびて、勢いがある。用筆は軽く押し、蔵峰で書かれており、昔を懐かしむ心が溢れている、

明 文彭

草書唐王勃滕王閣序

文彭(1498-1573)、字は寿承、別号は三橋、江蘇蘇州の人。文徴明長子で、詩・画・篆刻に優れていた。また全ての書体を得意とし、中でも草書はとりわけ優れていた。早年は鍾繇・王羲之に学び、晚年は全てを懷素に学んだ。魏・晋台の古風な書き方を能くし、大草書も思うままに書いた。本作は唐代の人物-王勃(649-676)伝声の名作〈滕王閣詩序〉で、筆法は全て二王を手本とし、点画・俯仰・向背それぞれの書法に呼応して情を醸し出し、雅趣不減の文徵明をよく理解している。

展示作品リスト

年代
作者
作品名
形式
サイズ (cm)
附註
北魏
 
南石窟寺碑墨拓本
206x105.6
曹植碑墨拓本
166.4 x103.5
薛紹彭
雑書
27.3x304.5
宋刊金剛経塔 
111.2x57
明景泰三年(1452)裝。
鮮于枢
大書二十字 
132.8 x141.5
文彭
草書唐王勃滕王閣序
29.2 x35.8
共八開
胡正言
篆書兩首
23.1x14.6
共八開
思宗
書九思二字
57.6 x111.3
胡高望
書仏説大吉祥経塔
128.5x66.8
金士松
乾隆御製 鄂輝将軍等が巴勒布帰順を上奏すると同時に凱旋してチベットに戻ることを詠んだ詩
23.1 x86.7
清高宗
清人緙絲乾隆書熱河考 
36.8 x461
民国
曹容
蒋経国総統 謝東閔副総統就職祝福の軸
135 x64.6
曹恕先生捐贈
民国
王禔
篆書四屏 軸
142.6 x25.8
共四屏