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展示概要

祝允明(1461-1527)、長洲(現在の江蘇省蘇州市)の人。字は希哲、号は枝山。生まれつき右手の指が6本あったことから枝指生と号し、枝山老樵、枝指山人などと署名することもありました。幼い頃から聡明で、5歳の時には一尺ほどの大きな字を書くことができ、9歳になると作詩もできるようになり、後に群書を博覧したと言われています。弘治5年(1492)に郷試に合格して挙人となりましたが、進士の試験には落第し続けました。正徳9年(1514)に広東興寧県知県(現在の知事にあたる)となり、正徳16年(1521)に応天府(南京)通判に任ぜられましたが、病と称して一年足らずで帰郷してしまいました。官途は順調だったとは言えませんが、このことが祝允明を学問に没頭させたとも言え、文徴明や唐寅、徐禎卿とともに「呉中四才子」と並び称されました。

書法を得意とした祝允明は各書体に精通し、文徴明、王寵とともに「呉中三家」と称されました。早年は祖父の祝顥、外祖父の徐有貞(1407-1472)、岳父の李応禎(1431-1493)から薫陶を受けました。書法は主に晋唐時代の書から学び始め、しっかりとした基礎を築きました。伝世の書蹟を見ると、いろいろな書風が混在しているのに気付きます。比較的わかりやすいのが、鍾繇、王羲之、虞世南、欧陽詢、褚遂良、張旭、顔真卿、懐素、柳公権、蘇軾、黄庭堅、米芾、趙孟頫などの影響で、実に幅広く学んでいたことがわかります。先人の模倣であっても祝允明自身の情感がにじみ出ています。祝允明は、当時の人々が伝統を踏まえず、古典の臨書を「奴書」(単なる古人の模倣)だとしてあざ笑うかのような態度に納得せず、「奴書訂」を書いて反論し、「晋や唐の古典を学んで正しい書法を守るべきだ」という書道観を示しました。呉寛の東坡体から沈周、文徴明の山谷体まで、蘇州書壇に属した俊英たちの心の声を代表する、祝允明の主張がはっきりと見て取れます。それは、明代初期に盛んになった館閣体(公文書などに用いられた標準字体)に対する不満でもありました。祝允明はその精彩を極めた倣古の書風によって、古典の臨書も優れた創作方法の一つであると、身をもって示したのです。そして、自らの作品によって各書家の書風を示したのみならず、それらを深く理解した上で融合させ、ついには独自の風格を生み出しました。その中でも特に小楷と草書が名高く、蘇州書壇に新たな流れを切り開きました。

国立故宮博物院が所蔵する祝允明の書法作品は質・量ともに優れています。この度の特別展では、それらの中から異なる時期に書かれた楷書と行書、草書作品を精選して展示いたします。その書風の多様性や、古典を学ぶことによって生み出された書道観などをご覧いただきます。