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文物のご紹介

職貢図 (New window)

職貢図

清 乾隆年間 謝遂 画 紙本 着色
清高宗、劉統勳、梁詩正 跋
縦33.9cm 横1481.4cm
中画000046 国立故宮博物院所蔵


謝遂は清代乾隆朝の宮廷画家であり、役人が進呈した地方の絵図や上奏文に基づき計四巻、三百一幅の絵図からなる「職貢図」を作成。乾隆十五年(1705)頃から描き始め、乾隆五十五年(1790)に完成した。「職貢図」に記録されている朝貢使節団の図像は、東アジアの日本、朝鮮、琉球、ベトナム、ブルネイから、遠くイギリス、フランス、オランダ、イタリアなどのヨーロッパ各国も含まれ、当時の清朝の繁栄ぶりと諸国来朝の気運が描かれている。各絵図には一国の男女使者の姿が描かれており、清朝と当該国の交流や朝貢、貿易の状況、その国の生活や習わしなどが満文と漢文で併記され、東アジアの海洋国家における清朝の中枢的な地位を際だたせている。例えば琉球やオランダについては次のように記されている。琉球は南東の大海に位置し、明代初期は中山、山南、山北の三国に分かれていたが、明宣徳年間には中山国に合併されたため、清朝の文献では琉球を「中山」とも称している。清朝は琉球と盛んに朝貢貿易を行ったばかりでなく、天子直筆の扁額をたびたび賜り、更には琉球王の陪臣子弟を国子監に受け入れた。一方、オランダについては順治十年(1653)には既に広東で中国と貿易を行っており、男性の多くは黒のフェルト帽を被り、挨拶をする時は帽子を脱いで礼をし、華やかなビロードの服をまとい、手には剣を握っている。女性は水色の布で髪をまとめ、シナバー(辰砂結晶)のネックレスを掛け、肩にはショールを羽織り、胸元が開いた服と長いスカートを身に付け、朱色の草履を履いている。(呉彦儒)


奏報籌弁天津水師官兵船隻情形摺
(天津水軍の編成と戦船建造の状況を報告した奏摺) (New window)

奏報籌弁天津水師官兵船隻情形摺
(天津水軍の編成と戦船建造の状況を報告した奏摺)

清 閩浙総督汪志伊 奏《軍機処档摺件》
嘉慶二十二年正月二十七日
26扣 縦23.2cm 横10.1cm
故機051138  国立故宮博物院所蔵


嘉慶二十一年六月、イギリスの使節アマースト(William Pitt Amherst、1773-1857)が突然天津に現れ、更に通州の奥地へと入っていった。この一件は先に東南の海域で大規模な海賊討伐を行っていた清仁宗(嘉慶帝)の危機感を掻き立て、清仁宗は直ちに天津水師(水軍)を編成するよう命じた。これを受けて直隷提督の徐錕は、天津水師には大同安梭船と小同安梭船を各四隻配置すべきとし、船は江蘇、浙江、福建、広東の四省に建造させることを提議。また、閩浙総督の汪志伊は天津の開けた海面には集字号や成字号など大型の同安船が適しているとし、集字同安梭船と一号同安梭船の採用を提言した。汪志伊は各省が建造する船舶の規格を統一させるため、船の絵図を二幅描き、それぞれに付札を貼って申し送りをしたほか、二種類の船で使用する木材の寸法が記された二冊の控え帳を両江総督の孫玉庭、両広総督の蒋攸銛、浙江巡撫の楊頀らに送り造船を急がせた。当博物院が所蔵する軍機処档摺文書の附図には汪志伊が描いた二枚の同安船の図があり、黄色の付札には船舶の大きさ、乗員、兵装などの情報が書かれている。なお、木材の規格が記された控え帳は見付かっていない。(周維強)


集字号大同安梭船図 (New window)

集字号大同安梭船図

清 閩浙総督汪志伊 奏《軍機処档奏摺録副》
嘉慶二十二年正月二十七日
縦35.5cm 横40.5cm
故機051156 国立故宮博物院所蔵


同安船は元は商船であり、操縦が容易だったことから乾隆末年から徐々に水軍の戦船として使用されるようになった。嘉慶年間、清朝は海上を荒らし回る海賊に対抗するため大型の同安船を外海水軍の主力とし、アマーストの来訪をきっかけに再建した天津緑営水軍でも大同安船を採用した。この絵図は閩浙総督の汪志伊による「奏報籌弁天津水師官兵船隻情形摺(天津水軍の編成と戦船建造の状況を報告した奏摺)」の附図の一つであり、集字号大同安梭船とそれに附随するサンパン(通船)が彩色で描かれている。二枚の付札うち右上の黄色の付札には墨で図題が書かれ、船尾の右側の方形の付札には図題、船の長さと幅、三本の帆柱の高さ、大砲などの武器の数が記されている。

集字号大同安梭船は全長26m、大檣(最も高い帆柱)の高さは29m。この絵図からもわかるように、同安船は帆柱を三本使用している点で従来の水軍戦船と大きく異なり、使用する帆の数が多いため速度も増した。「欽定福建省外海戦船則例」と比較すると、大同安船の大檣は同等級のものよりも一丈(約3m)高く、補助帆を追加できる船であったことがわかる。

集字号大同安梭船には重さ二千四百斤(1,440kg)の紅衣砲二門、二千斤(1,200kg)の紅衣砲二門、一千五百斤(900kg)の紅衣砲が四門あり、計八門の主砲が設置されていた。このほか比較的射程の短い小型火砲の八百斤(480kg)の洗笨砲一門、百四十斤(84kg)の劈山砲十六門あり、合計二十五門の各種火砲を備えていた。

この附図は極めて貴重な彩色の戦船図であり、描写は細緻ではないものの、船の重要な構造や前檣頂に掲げられたオランダ国旗、大檣と後檣に掲げられた風向きを示す旗などがはっきりと描かれている。また、甲板から上にある船首の絞車(巻き揚げ機)、車員、とま、廁櫃、砲眼、水仙門などの構造、甲板以下にある兔耳、走馬、水蛇、竜骨及び舵などもはっきりと見て取れる。船尾の彩色が極めて精緻である。(周維強)


一号同安梭船図(壹号同安船図) (New window)

一号同安梭船図(壹号同安船図)

清 閩浙総督汪志伊 奏《軍機処档奏摺録副》
嘉慶二十二年正月二十七日
縦35cm 横39.5cm
故機051157 国立故宮博物院所蔵


この絵図も閩浙総督の汪志伊による「奏報籌弁天津水師官兵船隻情形摺(天津水軍の編成と戦船建造の状況を報告した奏摺)」の附図であり、一号大同安梭船とそれに附随するサンパン(通船)が彩色で描かれている。描写の形式は「集字号大同安梭船図」とよく似ている。

一号大同安梭船は全長22m、大檣の高さは22m。大檣は集字号大同安梭船のそれよりも低い。

一号大同安梭船の主砲は計6門。このうち重さ一千斤(600kg)の紅衣砲二門、八百斤(480kg)の紅衣砲二門、五百斤(300kg)の重砲二門のほか、百斤(60kg)の劈山砲四門、八十斤(48kg)の劈山砲が四門あり、合計で14門備えていた。船尾の彩色面積と描写内容はいずれも集字号の絵図に劣る。(周維強)


奏報提督李長庚率師追剿蔡逆在粵洋中砲身故並懇聖主迅賜簡員補放以重責成事
(蔡牽追撃中の李長庚提督殉職に伴う応援と蔡牽への重刑を要請した奏摺) (New window)

奏報提督李長庚率師追剿蔡逆在粵洋中砲身故並懇聖主迅賜簡員補放以重責成事
(蔡牽追撃中の李長庚提督殉職に伴う応援と蔡牽への重刑を要請した奏摺)

清 閩浙総督阿林保等 奏《宮中档嘉慶朝奏摺》
嘉慶十三年正月七日
12扣 縦21.5cm 横10.1cm
故宮095492  国立故宮博物院所蔵


嘉慶年間、海賊がいよいよ勢力を増し、蔡牽、朱濆及び張保仔などが浙江や福建、広東の沿海を荒らし回っていた。中でも悪名高い蔡牽は中国の沿海にとどまらず、台湾を攻め落として根拠地にしようと企てていた。こうした情勢に対応するため、清朝は福建や浙江の外海水軍の戦力を増強し、大型の戦船を建造して海賊を追撃した。海賊討伐の水軍を率いた代表的な統帥が浙江提督の李長庚だった。彼は福建と浙江の水軍を率いて蔡牽を数年にわたって追撃したが、ついには蔡牽の手下に狙撃され黒水深洋で命を落とした。

本奏摺は閩浙総督の阿林保と福建巡撫の張師誠が李長庚の殉死を報告した文書である。これによると嘉慶十二年十二月二十四日、李長庚、張見陞、許松年の三人は柑桔洋から広東海域へと海賊を追い込んだ。李長庚と張見陞は洲門洋で合流し、蔡牽を追撃。蔡牽が率いる十一隻の海賊船は南澳から広東省の海域に入り、武力攻勢をかけてきた。李長庚らは夜を徹して敵を追撃し、二十五日の明け方には海賊船三隻を残すところまで追い詰めた。黒水深洋に至る頃には蔡牽の船の頭巾と挿花が打ち落とされ、船体の損傷もひどく、仲間も多く死傷していた。李長庚はそれでも反撃を続ける蔡牽に火攻めを加えたが、火はすぐに敵に消し止められてしまった。この時、狂風が巻き起こり、海面が荒れ狂うように波打ち始めた。李長庚が蔡牽に再攻撃をしかけようとしたその時、喉と額に敵の攻撃を受け、二十五日の未の刻に息を引き取った。朝廷の各戦船も強風にあおられて散り散りとなり、二十六日に広東潮陽県の海門洋にて被害状況を確認した。

李長庚の訃報は朝廷を震撼させた。清仁宗(嘉慶帝)は本奏摺に「可惜之至、即有恩旨」(痛惜の至り、恩旨を賜る)、「可惜」(誠に惜しい)、「朕與軍機大臣亦同切齒」(朕も軍機大臣も憤っている)などと朱筆を入れ、蔡牽の「蔡」の字の横に「×」を書いて憎しみを示した。更に詔書では李長庚の訃報に「心揺手戦」(心が動揺し手が震えた)と述べ、李長庚を伯爵に追封した。これについて阮元は次のような詩を残している。「誰遣孫恩剩一船,非公追不到南天,遠探蛟窟五千里,苦歷鯨波四十年。隔歲過門皆不入,乘潮徹夜每無眠;雅之若與牢之合,早見臺澎縛水仙。」李長庚が長い年月をかけて海賊討伐に身を投じてきた様子がうかがえる。(周維強)


奏聞閩浙舟師在粵洋追剿蔡朱二逆情形摺
(広東海域における浙江水軍の蔡牽、朱濆の討伐状況を報告した奏摺) (New window)

奏聞閩浙舟師在粵洋追剿蔡朱二逆情形摺
(広東海域における浙江水軍の蔡牽、朱濆の討伐状況を報告した奏摺)

清 閩浙総督阿林保等 奏《宮中档嘉慶朝奏摺》
嘉慶十三年正月二十四日
13扣 縦21.6cm 横10.1cm
故宮095620 国立故宮博物院所蔵


浙江水師(水軍)提督-李長庚の死に悲憤した清仁宗(嘉慶帝)は、蔡牽と朱濆の海賊集団を全力で拿捕するよう浙江と福建の水軍に厳しく命じた。蔡牽と朱濆は当時最も大きな勢力を持つ二つの海賊集団の頭であり、浙江や福建、台湾、広東一帯の海を荒らし回り、朝廷の水軍も手を焼いていた。しかし、二人は協力し合うこともあれば、対立することもあったため、朝廷はたびたび朱濆に帰順を勧め、両者を分裂させることで二つの海賊を追い詰めようとした。本奏摺は嘉慶十三年旧暦一月二十四日、閩浙総督の阿林保(字は雨窗、?-1809、満州正白旗人)が清仁宗に上奏したもので、浙江、福建、広東の水軍が海賊を追撃した直近一カ月の航跡を報告したものである。阿林保は漳州、泉州などの地に赴き、自ら将帥らを指揮しながら拿捕にあたった。嘉慶十二年十二月二十六日、福建水軍提督の張見陞と金門鎮総兵の許松年らが、福建省から広東省恵州府一帯に入り、南方に向かって蔡牽と朱濆を十日間追撃。これと同時に両広総督の呉熊光に命じられ、広東提督の銭夢虎や閩粵南澳総兵の王得祿らも澳門から北上し、蔡牽と朱濆を追い込もうとした。一方、海豊県の県丞(県知事の補佐官)の上奏によると、福建と浙江の両水軍は広東の水域に馴染みがなく、行動に遅れが生じたが、地元の舵取りに誘導してもらい、ようやく海賊の追撃を続けることができたとある。清朝の水軍は海賊追撃のために異なる海域を航行する必要があり、迷ったり座礁したりするリスクも高かったはずだが、同安船は深さの異なる海面を航行できる優れた性能を備えていたようである。

清仁宗の李長庚の殉職に対する哀痛の念、水軍将官への厳しい態度、蔡牽と朱濆に対する怒りと憎しみが、この奏摺からひしひしと伝わってくる。特に蔡牽と朱濆の名の横に朱筆で「×」を入れ、「可恨」(憎い)と書いている。奏摺の最後には「嚴諭水師將弁、速擒蔡逆、佇膺封爵、若因循畏葸、查明立正國法」(逆賊蔡牽を速やかに捕らえた者には爵位を封じ、因循苟且の者には国法に則って処罰する)とあり、浙江と福建の水軍将官に対し、これまでのやり方に甘んじ、怠惰な態度で取り組んではならないと厳しく命じるとともに、積極的に拿捕した者には侯爵に封ずるとしている。(呉彦儒)