文物紹介
丸い口僅かに開いており、口縁には銅覆輪がかけてある。首は細長く、肩は傾斜している。大きな筒状の腹、底は平らで高台はない。胎はやや薄く、満釉支焼で制作されており、天青色を呈している。釉の薄い箇所は微かに薄紅色の光沢が浮かび、釉溜まりには細かな貫入(ひび)が入っている。底に乾隆帝の御製詩「詠汝窯瓶」が刻されており、それを囲むように5本の支釘跡が並んでいる。詩文は次のように記されている。「定州白悪有芒形、特命汝州陶嫩青。口欲其堅銅以鎖、底完而旧鉄余釘。合因点筆意為静、便不簪花鼻亦馨。当日奉華陪徳寿、可曽五国憶留停。」詩の末尾に款識「乾隆戊戌仲夏御題」(乾隆43年:1778)と、「古香」と「太璞」、二つの印もある。「奉華」の意味に関して、乾隆帝は詩註で次のように説明している。「内府にある汝窯盤の底に、奉華2文字が刻されている。考証によれば、奉華とは、宋高宗劉貴妃の号である。絵画を得意とした妃は、常に奉華印を用いた。この瓶の釉色や製法と盤に特別な違いはなく、同じように奉華2文字が刻されている。」
考証により「奉華」が南宋劉貴妃を指すとわかったことから、「奉華」銘のある作品は、南宋皇室の収蔵品だった可能性が高い。この作品の「奉華」款については、詩註に「亦刻奉華二字」とあるため、乾隆朝で刻されたと考えた者もいる。河南省宝豊県清涼寺窯址出土品との比較と、この作品の口縁が平らに研磨されている点から、本来は盤口だったことが知れる。それと同時に、内モンゴル陳国公主墓、天津独楽寺塔基で出土したイスラムガラス器から、紙槌瓶の様式の出所と、それが変遷して中国磁器の古典的器形となる過程にまで遡ることができる。北宋以降、紙槌瓶の底部に少しずつ変化が現れた。少数は平底のままだったが、南宋官窯と張公巷窯と同様に高台が付いた例もある。これに対して、韓国の高麗青磁に見られる平底の器形と、硅石墊で仕切った満釉支焼という工芸技術は、高麗青磁が汝窯から大きな影響を受けていたことを示している。