蘇軾(1037-1101)、四川眉山の人。字は子瞻、号は東坡居士。経史に精通し、詩詞、書画を善くした。黃庭堅、米芾、蔡襄と並んで「宋代の四大書家」と称されている。
この書簡はまたの名を〈一夜帖〉或いは〈季常帖〉と言い、蘇軾が黄州に左遷された時、良友である陳慥(字は季常)に宛てて書いた手紙である。その内容は、季常へのお願い事。つまり王君に黃居寀の画作を貸せない理由を説明して欲しいということとお詫びかたがた磚茶を送ると言う物である。用筆は力強く鷹揚、且つ滑らかであり、その風采は人を感動させて止まない。〈宋十二名家法書冊〉より。
釈文:一夜尋黃居寀龍不獲。方悟半月前是曹光州借去摹搨。更須一兩月方取得。恐王君疑是翻悔。且告子細說與。纔取得。即納去也。却寄團茶一餅與之。旌其好事也。軾白。季常。廿三日。
饒介(?-1367)、字は介之、号は華蓋山樵、醉樵、浮丘公童子。江西臨川の人。翰林應奉から江浙の廉訪司事に遷り、淮南行省参知政事を歴官。詩文が巧みで、書法にも長けていた。饒介の書は遠く王献之と懐素を師とし、歴史上、彼の草書は飄逸としていて懐素に似ており、運筆の滑らかで力強い風格は王献之に近いとされている。
本幅は〈元人法書〉の第十四幅で、運筆は起伏に富んでおり、王献之の行書の風格の中に懐素の筆意が溶合している。全作共に縦横に筆を揮っており、氣脈は充分に通じ、章草の筆法が混じり、ますます古風で飾り気のない趣を滲ませている。
釈文:虞山人勝伯。陳山人唯寅。皆為鄉里。解後共飲。問及仙遊事。欲所賦詩。未果寫。既去。僕已醉矣。酒醒遂和以答二賢初意。此凡四也。十八日介錄。掃除狡獪蓄神機。開頂葫蘆不置扉。人物已從垣外見。真形漸向市中微。盃淺白鴿沖霄去。劍化雙龍破浪歸。自此更無毫髮累。綠毛繞體欲成衣。 獨坐(點去)據胡床醉不移。坐深簷露滴髭眉。蕭蕭風水成音樂。澹澹星河起鷺鷥。語罷欲乘黃鶴去。興來忽使日雲馳。火龍□傲烹茶□。不析扶桑一氣炊。 羃羃松陰布網羅。鶴巢松頂吸天河。是何道士圍棋坐。著箇樵夫對酒歌。看月也知為爾好。憑風無奈欲歸何。送君直過橋西去。還記垂楊葉不多。
文彭(1498-1573)、字は寿承、号は三橋、長州(今の江蘇省蘇州)の人。文徵明の長子で、幼い頃より家伝の学問を受け継ぎ、詩・書・画のいずれも長けていた。文彭は各書体を書する才能があったが、中でも草書を得意とした。本幅の内容は二首七言詩で、文人の閑居の風情を描写している。詩の構成は簡素であるが章法は失しておらず、巧みに配置されて味わいがあり、運筆は変化に富み、奔放自在な様は父親を凌いでいる。〈元明書翰第五十冊〉より引用。最後の頁の題字に「隆池尊兄」と書かれているところから彭年(1505-1566)に送った作であることが伺える。
釈文:山水平生興不孤。嘉禾惟有水平鋪。不須刻木如朱子。自有營丘設色圖。 黃鳥啼春春晝長。帋屏矮几竹匡牀。薰罏香燼茶甌歇。掛起南窓納晚涼。
張照(1691-1745)、華亭(今の上海松江)の人、字は得天、号は涇南。仏典に精通し、法理を研究し、詩画を善くし、音律にも通じ、特に書法に長けていた。書風は董其昌や、遠くは米芾に近い。乾隆帝はこの素晴らしさを、「通俗な美の中に端正を有している」と讃美した。
作品の右に「蘇軾尺牘を臨模」とあるが、東坡の原物は存在せず、清宮の旧蔵〈明 董其昌臨宋四家書巻〉の段落より模したものである。作品の左側には絵壷と茶碗が描かれており、壷には張照の七言詩が書かれており、宋人茶事を述べている。表装は全体的に目新しく優雅であり、詩・書・画が一体となり、巧みに配置されて趣がある。〈清張照雜書冊〉より。
釈文: (右幅)昨夜清風明月。過蒙法施。今又惠及清泉。珍感不已。术湯法豉。恐濁卻妙供。謹卻回納。不一一。軾白。(左幅)松軒瓦甒試春芽。故事流傳盛宋家。君實清風携紙裡。端明微類貢綱茶。郊成手詔頒龍餅。宴罷親煎擊乳花。若使芝蘭獨沾溉。堂廉恩意古今誇。
郭麐(1767-1831)、字は祥伯、号は頻伽、別号は邃庵、晚年復翁と称する。右の眉が真っ白であったことから、又の名を白眉生と号する。江蘇吳江の人。游姚鼐の門下で、殊に阮元に認められていた。詞章が巧みで、篆刻を善くした。書法は黃庭堅より学んだ。 聯文:「茶甘半日如新啜、墨玅移時不再磨。」は南宋の詩人である陸游作の〈初秋雜詠〉より引用している。当時の梁章鉅(1775-1849)は言郭書について、「字は涪翁(黃庭)を師とし、時には沈(沈周)の筆跡を真似ている」と言っている。本幅は連綿体で一方に傾いており、中央の線は落ち着いている。運筆は凝練且つ趣があり、やはり黃と沈の風貌を具している。
蒲華(1832-1911)、原名は成、字は竹英、作英、号は胥山外史。秀水(今の浙江省嘉興)の人。早くして花卉を描き、徐渭や陳淳の伝統を受け継いだ。晚年は墨竹画を好んで描き文同に心酔した。晚年は上海に住み、絵を売って生活をした。かつて日本に遊び、日本画壇の高い評価を得た。
蒲華自らが、その草書は唐の呂洞賓(呂巖)、及び南宋の白玉蟾(葛長庚)に学んだと言っている。聯文:「讀画心清し時茶を賞味し、花を見るに意を得て更に沈思黙考す」。行草を書くに、その線は豪邁且つ雄大で力強い。落筆は放逸でとらわれず、書壇に於いて独特の風格を有した。1895年に書す・当年64歳。
張大千(1899-1983)、本名は爰、号は大千居士、四川内江の人。詩文書画を善くし、絵画に於ける才華は衆を凌駕している。抗戦期間、遠く敦煌の地に赴き壁画を模写した。六十歲以後、伝統的な水墨画の基礎に立ち、潑墨、潑彩等の新しい技法を生みだし、国内外芸術大家の高い評価を得ている。 本幅は淡墨で菊とポットを描き、簡潔且つあっさりして上品な画風である。表題は、「茶已熟、花正開、賞秋人、來不來。」で、筆墨の趣は素朴で味わいがある。1932年頃に書かれた作品で、大千が陳雲誥(号蟄廬)に送ったものである。〈張大千于非闇花卉草蟲冊〉より。